「ダンデルス(1)」(2025年01月02日)

1762年10月21日、ヨシナ・クリスティナ・トゥルケンが男児を産んだ。新生児の
父親であるバーチャード・ヨハン・ダンデルスはその子にヘルマン・ヴィレムという名を
授けた。この夫婦は男女13人の子供をもうけたが、成人できたのは4人だけだった。ヘ
ルマン・ヴィレムは13人中の8番目だったそうだ。

活発で活動的なこの子供は生まれ故郷で基礎教育を終えると、法学を習得するためにヘル
デルヴェイクへ行った。政治家だった父親はかれに自分のような政治家になることを望ん
だのだ。父親は町の行政議会員だった。

ところがヘルマン・ヴィレムは愛国的法学教授の生徒になり、その師から愛国心をたっぷ
りと注入された。その大学時代にかれは博士号を得るための推薦を得ている。ナポレオン
の権威を笠に着た愚物というダンデルス評を語るひとびとがいるのだが、それが好悪にも
とづいた偏見であることをそのできごとが証明しているように思われる。

大学で時代の先端を行く国家行政に関する新しい観念に接したダンデルスは、オランダの
現状がその理想からいかに乖離しているかということに歯噛みした。学業を終えて故郷に
帰ったダンデルスは、政治キャリヤを開始する。

そのころオランダではフランスの革命思想の影響を受けて一般庶民が武装する動きが強ま
っていた。武装庶民に戦闘訓練を与える団体ができており、ダンデルスはその団体に加わ
った。米国の独立戦争からもひとびとは思想的な影響を汲み取っていた。社会の民主化に
向かうための庶民の武装は貴族主義反動派との対決を避けられないものと考えていたのだ。
政治キャリアの発端からダンデルスは硝煙の匂いの真っただ中にいたようだ。


1785年にダンデルスの父親が没した。市民有力者層が息子を父親の後継者にするよう
領主に進言したものの、拒絶された。領主のプライベートな警護人がその欠員を埋めたの
である。その後再び行政議会に欠員が出たとき、同じことがまた繰り返された。市民は領
主の横暴と対決する姿勢を打ち出し、アムステルダムや他の諸都市にある同じ思想の市民
団体と横の連携をはかり、支援の約束を得た。

ところが領主は領地の不穏な情勢を平穏化させるためにシュペングラー少将率いる騎馬兵
団・砲兵隊・歩兵2個連隊を招いて領内に厳戒態勢を敷いた。叛乱を計画していた市民た
ちは領外に逃亡せざるを得なかった。もちろんダンデルスもそのひとりだった。

そんな状況のために故郷を去ったダンデルスは、オランダに対する主権を主張するプロシ
ャ軍の侵攻に抵抗するためにユトレヒトに向かった。そのときの防衛戦でダンデルスは指
揮官のひとりに選ばれている。しかしプロフェッショナルな軍隊の進撃を義勇兵だけで防
げるわけがない。義勇兵は追い散らされて後方に逃れたが、ついに逃げ場を失って国外に
逃亡した。


フランスで革命を実体験した後の1791年、ダンデルスは仲間と商会を興して武器を購
入し、オランダに送って共和国を打ち建てる運動を推進した。その動きにフランス革命政
府を巻き込み、フランス革命を成し遂げた革命の志士たちとの交際を広げ、オランダを代
表する親フランス革命支持者の立場にかれは就いたのである。

かれはバタアフ大隊を編成してフランス革命軍に参加し、オランダ人部隊の将軍になった。
バタアフ大隊がオランダに入ったのは1795年だった。フランス革命政府のミニチュア
版としてバタアフ共和国がオランダを統括した。

バタアフ共和国が安定すると、1800年にかれは国軍から去って田舎での地主生活に入
った。ところがバタアフ共和国が1806年にルイ・ボナパルトの王国に替わってから、
ジャワ島をイギリスの侵略から防衛する仕事の適任者探しが行われ、そこにダンデルスの
名前が浮上してきたのである。[ 続く ]