「大郵便道路(14)」(2025年01月02日)

マウラナ・ハサヌディンが建てた王宮は息子のマウラナ・ユスフがスルタンのときに拡張
されて3.8Haの広さになった。壁はレンガと石で作られた頑丈なもので、その外を濠が
巡っていた。東西方向3百メートル、南北方向1百メートル、城壁は高さ2メートル幅5
メートルという頑丈さであり、城壁の4隅にはバスティオンが設けられていた。大門は北
・東・南の三つあり、開いたときに閂を撃たれないようにするため門扉は湾曲していた。
ダンデルスはその要塞のような王宮を1808年に崩壊させた。

今残っているのは建物の土台・壁の一部・門・水浴場の跡などだ。水浴場をはじめ、王宮
内に澄んだ上水を流し込むために人口の池が王宮から2キロほど離れた場所に作られ、三
つの濾過施設を通った水がテラコッタの上水道を通って流れ込むようになっていた。これ
を作らせたのは第二代スルタンのマウラナ・ユスフであり、実際の建設工事を指揮したの
はVOCを脱走してバンテンスルタンの側近になったオランダ人ヘンドリック・ルカース
ゾーン・カルディルだったと述べている説があるものの、マウラナ・ユスフは1585年
に没しており、時代が合わないように思われる。

濾過施設は倉庫あるいは工場のような形状をしており、pengindelanと名付けられた。池
の水が最初に通過する濾過施設はPengindelan Abang、二番目がPengindelan Putih、三番
目がPengindelan Emasという名前だった。どうやらそこを通過する水の特徴を採り上げた
命名のような印象を受ける。水の濾過には砂とヤシ繊維のフィルターが使われた。

indelというのはジャワ語で、茹でることを意味している。その語感からフィルターを通
す際に水を加熱したような印象を受ける人が多いのだが、加熱作業はまったく行われなか
った。じゃあ何で「茹でる」という言葉を使ったのだろうか?

わたしの想像では、汚れた水をフィルターを通して加工することを「茹で上げる」という
ニュアンスで使ったのではないかという気がするのだが、同感くださる読者はいらっしゃ
るだろうか?

それはともかくとして、西ジャワ地方の西端であるバンテンでどうしてジャワ語が?とい
う疑問を抱いた方はいらっしゃらないだろうか?バンテン地方がスンダ文化と違っている
点がそこにある。バンテン住民は元々スンダ人だったのだが、チルボン=ドゥマッ連合軍
が港を征服して多数のジャワ人が住み着いたとき、ジャワ文化が混入した。チルボンでさ
え、地理的にはスンダの領域内であるにもかかわらず、ジャワ文化が強く溶け込んだ地方
なのだ。


ポルトガル人が約束を果たしにバンテンにやってきたのは契約を結んでから5年後のこと
だった。ところがそのときバンテン港の守備に就いていたのはイスラム軍だったのである。
イスラム兵のアカンベーと蔑みの怒鳴り声や嘲笑を前にして、ポルトガル船はすごすごと
マラカに引き返して行ったという情景が現代のネット記事の中に描かれているのだが、目
的地の最新状況に関する情報集めも、ましてや偵察さえも行わないでバンテン港に船を乗
り入れるようなポルトガル軍指揮官が本当にいたのだろうか?軍隊という場がそんなもの
で済んだのであれば、地球はもっと早く平和になっていたのではあるまいか?

パジャジャラン王国からもぎ取られたバンテンはチルボンの属領にされ、チルボンのスル
タンの息子であるマウラナ・ハサヌディンがイスラムバンテンの領主になった。バンテン
がスルタン国としてチルボンからの独立を許されたのは1552年であり、ハサヌディン
は27年間、王になる日を待ち続けたことになる。


オランダ船がはじめてバンテンに入港したのは1596年だった。コルネリス・ハウトマ
ン船隊の乗組員が書いたバンテンの描写によれば、バンテンの町は人口7万人を擁し、ア
ムステルダムに匹敵していて、町の東側(Karang Antu)にはポルトガル人・アラブ人・
華人・トルコ人・インド人・ペグー人・マレー人・ベンガル人・グジャラート人・マラバ
ールやアビシニア地方の者たちなど大勢の外国人が居留して交易を行っていたそうだ。

そのころ、バンテンは旧パジャジャラン領のカラワンに至る地域を支配下に置き、海を越
えてランプンを自分のコショウ農園にするために力を注いでいた。そしてランプンの支配
権を主張するパレンバンがバンテンの動きに介入し、帰結として起こったパレンバンとの
戦争でバンテンはパレンバンに押されつつあったのだ。

ヒンドゥバンテンがポルトガル人を大歓迎したように、イスラムバンテンもオランダ人を
大歓迎した。コショウ買い付けの顧客ということ以上に、オランダの軍事力に期待をかけ
たからだ。しかしオランダは軍事支援を拒んだ。[ 続く ]