「大郵便道路(15)」(2025年01月03日) イスラムバンテンは自港の重要商品であるコショウの入荷量を増やすためにランプンに勢 力を広げた。ランプンの諸領主の争いに介入してバンテンに協力する領主のために軍勢を 差し向けた。ランプンの平定が進められていく中でコショウ栽培が大規模に開始され、バ ンテンのスルタンはランプンの諸領主に要求を出した。 住民ひとりにつき5百本のコショウの木を植えるべし。定められた印形を持つ商人以外に コショウを販売してはならない。等々の命令がランプンに向けて下されている。 ヨーロッパ人の第二波であるオランダ人やイギリス人の到来したころ、イスラムバンテン 国の威勢は赫々たるものだった。オランダとイギリスを対立させて漁夫の利を得ようとす るバンテンの方針は図に当たっていたが、JPクーンというVOCオランダ商館の一幹部 が抱いた野望によって百年の計がとんでもない結末に至ることになった。 バンテンのオランダ商館長はバンテンでの業績が伸びないために、バンテンの属領である ジャヤカルタへの進出を行った。分所を設けて間口を広げようというアイデアだったのだ ろう。ところが新たにバンテンに駐在したクーンは状況を見極めるや、バンテン商館を畳 んでジャヤカルタに移転することを決めた。3百年後のジャカルタという大都市の布石が そのときに打たれたのである。 オランダ商館のその決断はバンテンにとって予想外のものだったのではないだろうか。属 領であるジャヤカルタ領主の本家への反抗的な姿勢と相まって、VOCの力ずくでのジャ ヤカルタ征服をバンテンは阻止することができなかった。 ともあれ、バンテンはパジャジャラン王国領内を軍隊と宗教のふたつを使って自己の支配 下に移し替えた。しかし西ジャワ地方の東部ではマタラム王国が同じようなことを行って いた。プリアガン地方にはマタラムの影響が浸透していたのだ。 マタラムのスルタンアグンがバタヴィアをオランダ人の手から奪還しようとしてバンテン に同盟を申し入れたが、マタラムへの臣従を強いられることを恐れたバンテンはそれに応 じなかった。結局マタラムは単独でバタヴィアに征服戦を仕掛けたものの失敗する。 かと言って、バンテンがバタヴィアと友好関係を結んだわけでも決してない。VOCはバ ンテンにコショウを買いに来る外国船を無理やりバタヴィアに連行したり、バンテン港を 封鎖したりして商売敵の力をそぐことに努めた。バンテンが強大化することはバタヴィア の仮想敵に対する恐怖の膨張を意味していたのだ。 17世紀後半の英傑スルタンアグンの時代、バンテンスルタン国はスマトラ南部からカリ マンタン西部にまで覇権を広げ、優秀な帆船がその間の海域を支配した。バンテンのスル タンアグンはマタラムのスルタンアグンと別人で、マタラムはSultan Agung、バンテンの ほうはSultan Ageng (Tirtayasa)と書かれる。 スルタンアグンティルタヤサはバンテンの国力を最大限に高めることに成功した人物だ。 バタヴィアのVOCを逃亡したヨーロッパ人やプリブミ奴隷をかれは受け入れて保護した。 バタヴィアの街中で何が行われているのかをよく知っているのがかれら逃亡者だったから だ。バタヴィア造船所で行われている船の作り方を逃亡者にバンテンで再現させれば、V OCと大差ない性能の船が手に入る。銃や大砲だって同じような性能の品が手に入るでは ないか。戦闘部隊指揮官や訓練指導官・ラッパ手や鼓手・砲手あるいは会計事務職員など の特技を持つ西洋人をスルタンアグンが歓迎したのは当然のことだった。 バンテンにやってきて住み着く非ムスリムの異国人には、ふたつの選択肢が待ち構えてい た。そのままのアイデンティティで商業活動することは認められるが、制約を受ける。居 住場所は町の城壁の外であり、城市の中に入ればイスラムの行動規律に束縛される。 もしもイスラムに入信するなら、城市内での居住が許され、契約行為や商業活動に制約を 受けず、また公職に就くこともできる。イスラムへの入信は割礼・イスラム名の使用・ポ リガミの実行などがその証明にされた。[ 続く ]