「ダンデルス(3)」(2025年01月06日) 世界の海をことごとく制圧したイギリスは唯一残されたフランス=オランダ海外領土であ るジャワ島を占領する準備を進める中で、ジャワ島防衛責任者としてダンデルスがジャワ 島へ赴任する情報を諜取し、ダンデルス逮捕の網を張り巡らせた。 東インド総督任命の辞令をもらったダンデルスはすぐにジャワ島に向かった。そしてほぼ 1年かけてアニエルに上陸した。どうしてそんなに長い旅をしたのだろうか?ジャワ島に 向かう旅の途上でジャワ島防衛の切り札がイギリスに捕まれば、フランス=オランダ側に とってはもう後がない。ダンデルスはオランダから出る船を使わなかった。 ダンデルスは陸路を通ってオランダからパリに移動し、さらにフランスの友好国スペイン まで足を延ばした。そして南スペインのカディス港からカナリー諸島へ行く船に乗ったの である。米国東岸とカナリー諸島間を渡海船が往来していた。その時期、ナポレオン戦争 に対して中立を表明している米国の船でジャワ島に入るのがもっとも安全だとダンデルス は考えたのだ。おまけにその旅をもっと安全確実にするために、ダンデルスは乗船名簿に 記載する姓名に妻の姓であるファン・フリヤデンを使った。 ニューヨークからジャワに向かう米国客船はアニエル港に入った。ダンデルスがアニエル に上陸した背景にはそんな話がからまっていたのだ。 船は1808年1月1日に到着し、ダンデルスはアニエル〜バタヴィア間およそ125キ ロを4日かけて移動した。1月5日に船がアニエルに到着したと書いているイ_ア語記事 もあるのだが、ダンデルスの総督就任開始が1月5日になっているので、とりあえず1月 5日バタヴィア到着ということにして話を進めることにする。 1808年1月5日にバタヴィアに到着したダンデルスは、辞令や身分証明などの書類を 何も持っていなかった。道中で紛失したと説明している記事もあれば、イギリス側に捕ま った時の用心だったという話もある。ともかく、ダンデルスはバタヴィアのカスティルに 乗り込むと即座にアルベルトゥス・ヘンドリクス・ヴィ―セ第36代総督を総督執務室か ら追い出し、東インド参議会に対して一切の政策決定権は自分の手にあると宣言した。 いざかれがバタヴィアに到着したとき、かれが目にしたのは前世紀の軍事思想が築いた廃 墟の中でうごめいているバタヴィアの防衛態勢だった。ナポレオンが行うヨーロッパでの 戦争の渦中に身を置いてきたダンデルスには、抜本的な防衛体制の構築が急務になった。 VOCが築いた要塞など、イギリス軍の大型砲の前では砂の城だ。ダンデルスは前世紀の 要塞を取り壊して新型要塞をあちこちに作らせた。 そのひとつに、ウジュンクロン要塞がある。ダンデルスはウジュンクロンのパナイタン湾 を最重要拠点のひとつと見て、バンテン王国にその建設のための労働力を用意するよう命 じた。ウジュンクロンがバンテン王国領だったのだから、当然の措置だろう。バンテンの スルタンはその命令に従って労働力を用意した。政庁からは白人の建築家や技師たちが現 地に赴いて要塞建設を指図した。ところが現地の風土が人間の侵入を許さなかったようだ。 食糧事情の劣悪さ、そして過労と病のためにウジュンクロンのジャングルに入った者たち はバタバタと倒れ、プリブミも白人も関係なく平等に滅びた。[ 続く ]