「大郵便道路(17)」(2025年01月07日) 1689年にカルディルはオランダに帰りたいとスルタンハジに申し出て、バンテンから 去った。ところがバタヴィアに戻ると、船に乗らずに自分の領地であるラグナンに住み着 いて、おまけにイスラム教徒からキリスト教徒に復帰した。1911年にオランダ人歴史 家のドゥ ハアンは、カルディルの墓がラグナンにあり、一部のひとびとはその墓を聖所 として詣でていると書いている。ところが現代のラグナンで古老たちにカルディルの墓に ついて尋ねても、何の情報も得られない。 それどころか、ラグナンの古老たちはウィラグナがオランダ人だったという話を否定する のである。ラグナンを開いたパゲラン ウィラグナという人物は、ファタヒラのスンダク ラパ征服戦争を手伝うように命じられたドゥマッの重臣だった。 スンダクラパがジャヤカルタに変わったあともウィラグナはドゥマッに戻らないでファタ ヒラに仕え続けた。ファタヒラはウィラグナにジャヤカルタ南部の開発を命じ、ウィラグ ナは南部にある土地を開いて村を作った。 ところがウィラグナ非オランダ人説にまた別バージョンがある。ウィラグナはワリソゴの ひとりであるスナン グルシッの高弟だと言うのだ。そして一般にウィラグナの墓所と信 じられている場所に滞在してイスラム布教を行い、村作りを行った。だからウィラグナの 墓所は本当は聖蹟であって墓ではないのだそうだ。 VOC文書には、東インド参議会とヨハネス・カンパウス第15代総督が戻ってきたカル ディルをキリスト教徒オランダ人として受け入れたことが記されている。もちろんそれを 証明させるための手続きが公的に行われたことは間違いないだろう。 カルディルの名前が1695年の文書の中に登場している。地主でもあるかれが木材伐採 機器類のオペレータとしてバタヴィアレシデンの個人的アシスタントを務めたことが記さ れているのだ。チーク材はVOCにとって優良な商品になっていた。バタヴィアの周辺に もたくさんチーク樹が生えており、VOCはそれをごっそりと売り払った。Jatiという地 名を持つ地区がジャカルタに今でもたくさんあるが、ジャティの巨木はもうほんのわずか 見られるだけだ。 その年に、カルディルは6年間連れ添った妻のニラワティと離婚した。離婚の理由につい てVOC文書は、スンダ人の男と不倫行為を行ったためと記している。そしてクリスチャ ンの新しい妻をめとった。ニラワティはムスリマだった。 カルディルのバンテンへの逃亡とオランダ人への復帰のドラマが何を意味しているのかは よくわからない。それはともかくとして、VOCはバンテンを傀儡国家にする方針を固守 した。最終的にオランダ人が直接統治するようになるバンテン王国領なのだが、VOCと いう会社にとってそれは重すぎる仕事だったということなのだろうか? しかし、VOCが築いたその方針をダンデルスが粉砕してしまった。バンテンのスロソワ ン王宮は瓦礫の山と化し、スルタンは野に隠れて領民のシンボルになり下がってしまった のだ。 そんな状況になってはいたが、バンテンスルタン国は自滅しなかった。バンテンスルタン 国の息の根を止めたのはイギリス人ラフルズだ。ラフルズはバンテンスルタン国領をレシ デン統治区に変えてヨーロッパ人レシデンに統治させ、領内の諸行政区の首長にスルタン 王家の者を就けた。[ 続く ]