「大郵便道路(19)」(2025年01月09日)

レシデン統治区の首府になったために、セランには多数の西洋人が居住した。かれらは町
の中心部である3Haほどのアルナルン一帯に住んで諸活動を行った。行政・保安・教育・
医療などの諸機関がその一帯に集中したのだ。レシデン官邸はアルナルンの西側、そして
アルナルン南側には医務局が置かれたが、19世紀初期に建てられた医務局の建物は取り
壊されて今はホテルマハドリアになっている。

オランダ時代の支配者たちが住んで執務した建物はインドネシア共和国独立後、インドネ
シアの行政機関が使うようになった。バンテン州庁、セラン県庁、セラン軍管区司令部、
セラン警察本部、旧バンテン地区警察本部等々だ。旧バンテン地区警察本部は日本軍政期
に憲兵隊が本部として使ったそうだ。

現在のセラン警察本部建物を地元民の中にはOSVIAと呼ぶ者がいる。OSVIAとはプリブミ官
吏養成学校という意味のオランダ語Opleiding School Voor Inlandsche Ambtenarenの頭
字語だ。植民地政庁の原住民統治行政ではプリブミ貴族階層が公務員に任命され、中級か
ら下級官吏としての仕事を与えられた。だからオスヴィアというのは貴族の子弟が集まる
学校になっていた。

しかし別のイ_ア語解説によれば、セラン警察本部はオランダ時代にNormaal Schoolだっ
たという話もある。ノルマアルスホールというのはプリブミ補助教員を養成する学校のこ
とと解説されており、植民地時代に学校教員を養成する学校は一般的にKweek Schoolとい
う名称が使われていたのだから、それらの間の関係がどうなっていたのかまではよくわか
らない。


セラン第0602軍管区司令部も19世紀初期の建物だ。そこは1945年にHotel Voss
だった建物で、そのときホテルフォスは日本軍の将校宿舎として使われており、日本敗戦
が明らかになったとき、インドネシア人青年層がホテルフォスに掲げられている日本国旗
をポールから降ろす行動を行った。セランでのその行動がインドネシアでの初行動になり、
インドネシアが日本の統治から解放されたことを示すその動きが諸地方に波紋のように広
がって行ったと語る声もある。

日本軍を追い出したあとその建物は、後に正規国軍になる国民保安団および生徒軍・娘子
軍の司令部になった。独立闘争期にはNICA植民地軍の中に設けられた反ゲリラ部隊が
使う宿舎になっていたというストーリーもあり、1948年12月19日に行われた戦闘
でインドネシア側戦闘部隊に多くの犠牲者が出たそうだ。


レシデン官邸は現在バンテン州庁館として使われている。オランダ東インド政庁は犯罪者
の死刑執行を公開していた。法廷で絞首刑の判決が下された者たちは、町の中心であるア
ルナルンで首を吊られた。行政はできるだけ多くの住民に処刑を見に来るよう呼びかけた。
昔からヨーロッパでは、死刑は見せしめのために行われるものだったからだ。

だからバンテン州庁には民族独立を目指した大勢のプリブミ反植民地主義者がぶら下げら
れた絞首台があったはずなのだが、今その歴史遺産は影も形もなくなっている。

他にもVilla MerakやPelita Theatreなどの建物が歴史遺産として保存されるべきなのに、
姿を消したり形が変わったりという変化が共和国独立後に起こった。言うまでもなく、セ
ランでだけそれが起こったのでなくて、インドネシア全国いたるところでオランダ時代の
歴史遺産を残そうとする精神は希薄なものだった。

その現象について単に、歴史に対する俗物的な無知や軽視あるいは拝金主義にもとづく経
済優先主義だけをプリブミが持っていたためだと断じる論調が今のインドネシアの中でさ
えマジョリティを占めているものの、本当にそれだけだったのだろうか、という気がわた
しにはするのである。

その時代でさえ、インドネシア民族自身が作った歴史遺産をインドネシア人がオランダの
ものと同じようには扱わなかったような印象をわたしは受けている。もちろん無知無学の
下層民衆の中には食えない歴史遺産を保護しようとする意識などなかっただろうが、知識
層は姿勢を変えて対処した。なぜそんなことをしたのか?

自分たちを支配し奴隷にし、国土を奪い、富を略奪した者を民族主義が憎ませたからだろ
う。インドネシア民族が植民地支配の鎖を断ち切るためには、その憎悪の心情が不可欠な
バネになった。その憎悪が大衆心理の中に定着したとき、オランダ人がインドネシアに作
った歴史遺産はインドネシア人にとって無価値どころか、破壊し尽くしても飽き足らない
ものになった。

スカルノ大統領でさえ、オランダ人が作ったジャカルタの街を嫌い、街中に建立された像
や塔を破壊し、ヴィルヘルミナパルクをイスティクラルモスクに変え、ヴァーテルロー広
場をバンテン広場にして国家儀典広場としての役割を消し去ってしまったではないか。

その感情の渦から外れた時代に生まれた幸福なインドネシア人たちはあの独立闘争の時代
を恩讐のかなたに流し去ってしまった。自分たちの祖国を蹂躙した異民族が持ち込み、あ
るいは作った遺産であっても、今の自分たちの一部になっているのだとかれらは言う。歴
史遺産保存運動に携わっているセランの民間団体によれば、歴史遺産として国の指定を受
けるべき古い建物はセラン市内に86あるそうだ。[ 続く ]