「ダンデルス(終)」(2025年01月13日)

イギリス東インド会社軍は1811年4月半ばにおよそ百隻の大船団をつらねてインドか
らジャワ島に向けて進軍した。そしてダンデルスが去った後の1811年8月にチリンチ
ン海岸に上陸し、バタヴィア〜ヴェルテフレーデン〜メステルコルネリスに向かって大攻
勢をかけた。インドからジャワまでの進軍に長い期間がかかったのは風向きの関係でボル
ネオ島を回って東からジャワ海に入って来たためだという話になっている。

一方、パリに戻ったダンデルスはナポレオンが準備していたロシア攻略戦にフランス帝国
陸軍第26師団司令官として参戦し、軍主力の敗戦に巻き込まれずに帰国している。


ナポレオン時代が幕を閉じると、ダンデルスはフランスを去ってオランダに戻った。オラ
ンダはナポレオン時代にイギリスにかくまわれていたオラニェ王家の支配する親イギリス
王国に変容した。オランダ国王ヴィレム1世はこの帰って来た大物の扱いに頭を絞り、ア
フリカのオランダ領ゴールドコーストの総督職をダンデルスに与えた。それはどうやら一
種の「名誉ある流刑」だったようだ。1818年、かれは孤独と寂寥の中で、マラリアに
苦しみながら生涯を閉じた。

ダンデルスの名前は大郵便道路の建設者として光り輝いているものの、かれの道路建設は
そればかりではなかったという話もある。スマランからスラカルタに至る現在の国道20
号線も元はダンデルスが整備させた道路だと語る人がいる。

スマランは古マタラム王国時代からの港町だった。モジョパヒッ〜ドゥマッ等々の歴史の
変遷の中で地方領主が治める領地の中心都市になったいたから、イスラムマタラム王国時
代にもその状況は継続しており、スラカルタとスマランを繋ぐ道路は存在していた。マタ
ラム王国の産するコメがスマラン港から諸地方に輸出されていたのである。

1705年にススフナン パクブウォノ1世がスマランの領地をVOCに譲渡してから、
スマランはVOCの直轄領になっていた。スラカルタ〜スマラン街道は相変わらずコメの
通過路であり、そしてマタラムとVOC間の外交使節が通過する道になっていた。

ダンデルスがその道路を大郵便道路と同じ仕様で整備させたとしても、別におかしな話で
はないだろう。わたし自身が車を運転してその道路を数十回通っており、走りやすくて愛
着のある道になった。確かに、ソロを出てからグンポルまで走る道路とは趣が違っている
印象があったが、それはダンデルスとは無関係の、風土の問題のように思われる。


もっとすごい話としては、ジャワ島にダンデルスの道と呼ばれているルートが二つあるの
だ。ジャワ島北岸をアニエルからパナルカンまで貫く大郵便道路がダンデルスの道と呼ば
れている一方、ジャワ島南岸部でチラチャップからワテスまでのおよそ130キロを結ぶ
道路もダンデルスの道と呼ばれている。ダンデルス総督は何のためにそんな辺地に道路を
作ったのだろうか?

実はこの南岸道路の建設者もダンデルスという名前であったとはいえ、ヘルマン・ヴィレ
ムとはまったく別人のアウグストゥス・ディルク・ダンデルスだったのである。アウグス
トゥスは1838年にバグレン レシデン統治区のアンバルを統括する副レシデンを務め
た人物だ。

1825年から1830年までオランダ東インド政庁を苦しめたディポヌゴロ戦争で、ジ
ャワ島南岸を通るこの道路をディポヌゴロ軍は重要な戦略ルートとして使った。戦争が終
わってからも地元民はそのルートをディポヌゴロ王子に関連付けて呼んでいたから、アウ
グストゥス・ダンデルスはその事実に危惧を抱き、地元民の間でディポヌゴロをいつまで
も神格化させておいてはいけないとの考えから、その道路をグレードアップした上でその
名称に自分の名前を付けさせたという話になっている。ジャワ島にあるふたつのダンデル
スの道は互いに何の関連性も持っていない。

ところで、オランダ人がダンデルスと発音しているDaendelsという人名を現代インドネシ
ア人はデンドゥルスという米語式発音で読んでいるので、それを付記しておきます。イン
ドネシア人との会話で戸惑わないよう、お気を付けください。[ 完 ]