「大郵便道路(21)」(2025年01月13日) チサダネ川がバンテンとジャヤカルタの境界線だったことを示すできごともある。166 0年6月1日付けのVOCの日誌に「バンテンのスルタンはチサダネ川の西に広い領地を 開いて5〜6千人の領民を移住させた」と書かれている。 1668年12月20日の日誌によれば、ラデン セナパティとキヤイ ドゥマンがその領 地の統治者に任じられたが、スルタンはこのふたりに疑いをかけ、別のパゲラン アディ パティに統治者の地位を交代させた。キヤイ ドゥマンはスルタンのその仕打ちに恨みを 抱き、バンテンとVOCを抗争させるように仕向けた。キヤイ ドゥマンはパドゥマガン で殺された。 1680年3月4日の日誌に、その領地の統治者はキヤイ ディパティ スラディラガであ ると記されている。そして1682年7月2日付日誌には、キヤイ スラディラガと息子 のスブラヤが143人の護衛部隊を引き連れてVOCに保護を願い出たので、かれらをチ サダネ川東岸地区に住まわせた、とある。 バンテン軍が川を越えて進攻してきたが、スラディラガが敵を撃退したので、かれにはラ デン アリア スルヤマンガラ、スブラヤにはキヤイ ディパティ スタディラガの名誉称号 が授けられた。スタディラガはチサダネ川からアンケ川までを領地にするタングランの第 一代目のブパティに就任し、アリア スタディラガ1世を名乗った。 1684年4月17日にタングランとVOCの間で約定書が締結され、タングランはVO Cの支配に服し、バンテンはタングランの行政に関わる権利を一切持っていないことがそ こで謳われた。 インドネシアが独立するころまで、この町はベンテンと呼ばれていた。VOCがバンテン 軍の侵攻に備えて強力な要塞をチサダネ川に設けたのがその原因だ。タングランはバンテ ン王国に対するVOC側の国境地帯という要衝であり、その結果、要塞の周辺にできた町 が要塞という言葉でカバーされてしまったことになる。ジャカルタの華人の間で、あいつ の祖先はチナベンテンだという言葉が聞こえてくるとき、わたしは往々にしてそこに蔑み の込められた印象を感じてしまう。チナベンテンもブランダデポックも似たようなものな のだろう。 1692年の地図には、モーケルファール運河とチサダネ川の合流地点に防衛陣地が描か れている。1705年4月にその粗雑な資材で作られた防衛陣地を恒久的で頑丈なものに 改築する提案が出され、総督がそれに賛同してその実行を命じた。おまけに防衛陣地の周 囲を高い石の防壁で囲めという指示が付け加えられた。防壁にはタングランのブパティで あるアリア スタディラガ1世が提供したレンガが使われた。 最初、この要塞には30人のヨーロッパ兵と28人のマカッサル人傭兵が駐屯する計画に なっていたが、いざできあがったときにはヨーロッパ兵60人とマカッサル兵30人が配 備された。その後、バンテンで起こる反VOC叛乱のたびに、この要塞が反乱鎮圧の司令 部になった。 1801年にこの要塞をより効果的な位置に移すことが決まり、同時に改装工事が行われ て強力なものになった。それ以来、ひとびとはタングランの町をbentengと呼ぶようにな った。 タングランは1682年から1809年までアリア スタディラガ1世の子孫がブパティ となって治める行政区だったにもかかわらず、治政能力が劣っているという理由でバタヴ ィアの総督庁がブパティ統治区を取り消し、バタヴィア行政の下部区域のひとつに移管さ せた。そのあと何が起こったかと言うと、タングランの一部の土地が私有地として切り売 りされたのである。買ったのはバタヴィアの70人の民間人金持ち層で、華人が大半を占 めた。地主はまるで領主のようにふるまい、土地の住民は領主に仕える領民として扱われ た。国家の警察も裁判も私有地の中まで入らないのである。私有地が地主の領地だという のはそういう意味だ。[ 続く ]