「福建語好きのイ_ア人(4)」(2025年01月17日)

しかし現代世界でそんな姿勢を取り続けるのは傲慢自尊を絵に描いたようなものと見なさ
れることになる。インドネシア共和国という国家が自国通貨をRupiahと定めているという
のに、それを認めないで昔の植民地時代の歴史をいつまでも引きずっていては、国際外交
で心証を悪化させるのがオチだ。そのためにルピアに対応する華語単語が作られ、公式に
は盧比がインドネシアのルピアを示す単語になった。

「あれっ、それじゃあインドルピーと同じになるじゃないか?どうしてくれるんだ!」
「ああ、そりゃDollarだって同じでしょ。世界中のダラーは元という文字を当てており、
USDは美元、AUDは澳元、CADは加拿大元、HKDは港元、SGDは新加坡元・・
・。同じようにINRは印度盧比、IDRは印尼盧比、PKRは巴基斯坦盧比・・・。そ
れがお嫌なら、印尼盾でもいいんですよ。お宅は二本立てにしてあるんだから。」
「ムム・・・」


チュトゥンつまり1東インドフルデン紙幣は緑色をしており、「あらゆるものが金、金、
金。金でないものに向ける関心などない」という精神傾向を持つmata duitan人間を風刺
する警句も世に流行した。いわく、"Matanya hijau kalau lihat duit". 1東インドフル
デンコインの方は銀貨だ。

冗談はさておき、かつてのブタウィ人一般庶民の日常生活における金銭の呼び方は福建語
の方がより大きいウエイトを占めていたように感じられる。というのも、コタを中心にし
て商業センターになっている地区で庶民が買い物を行うワルンや道端キオスなどの店主は
ほとんどが華人だったからだ。それはもはや個人が選択的に行う任意的な性質を超えた、
社会習慣になっていたありさまを想像させる。

ブタウィ史家のアルウィ・シャハブ氏は、単に華人というだけでなくて新客華人だったの
だと書いている。1960年代ごろまで、庶民は米や灯油・炭・薪などの日常生活必需品
をワルンで買っていた。店主は半ズボンと下着シャツ一枚にはだしで店の商売を行った。
新客華人だから言葉は福建語がペラペラであり、それで客が理解してくれるのだから、イ
ンドネシア語を使おうという気が起こらなかったのだろう。

一般庶民でない上流経済階層の消費行動は高級商店街などの別の場所で行われていたから、
福建語の金額が飛び交うことはまず起こらなかった。上流層のショッピングは西洋人店主
が構えているブティックや大型ショップであり、ヨーロッパの品物が高い金額で販売され
ていた。そういう経済レベルの差が生活空間を分離させていたのである。


オランダ時代には、バタヴィアにもバティック生産者がたくさんあり、パルメラやスティ
アブディがセンターになっていた。女性は娘から老婆までがバティック布で服を作った。
もちろん既製服もたくさん作られた。1949年ごろには、女性用バティック服が一着2
5セント程度で売られていた。もっと古い時代には10セントでバティック服が一着買え
た。

1970年代ごろもその歴史を引きずっていて、バティックの衣服はデパートや大型商店
で大量且つ廉価に売られていた。もちろん手描きバティックは高額だったとはいえ、総体
的に廉価なバティック製品の海の中で目が飛び出るような高値を付けることができなかっ
たのは理の当然だったはずだ。

その不合理を是正するために、インドネシアを象徴するバティック布があまりにも廉価で
あるという批判が起こり、行政が指導して値上げが行われた。バティック生産者を豊かに
するのは国民福祉に関わることがらだから、単なる行政側の見栄ばかりでもない。現実に
バティック生産作業を行っているのはプリブミ労働者なのだ。

その政策はオルバ期が終わってから行われたような気がするが、ひょっとしたらオルバ末
期だったかもしれない。ともかくバティック布やバティック衣料品が高くなり、手描きバ
ティックは芸術品並みの扱いがなされるようになった。現在のバティック布の価値は政治
がらみで到達したものだとわたしは見なしている。[ 続く ]