「福建語好きのイ_ア人(5)」(2025年01月20日)

1949年ごろの四輪車価格はプリブミ庶民にとって天文学的数字と思われていたことだ
ろう。米国製のクライスラーやデソトは1台が1万フルデンを超えていた。日々数セント
で暮らしている庶民にとって、1万フルデンは何年分の生活費に相当するのだろうか?

借家も高級エリアから低級地区までいろいろあって、メンテンの高級住宅地の邸宅であれ
ば月額50〜100フルデン、庶民向け住宅地区の廉価住居であれば月額18フルデン程
度で住むことができた。1909年ごろには15フルデン程度だったそうだから、生活コ
ストはとても安定していたように思われる。


1906年のバタヴィア市庁予算は469,908フルデンで、スネン市場の改装とリハビリ工
事は1.7万フルデンで完了し、グロドッ地区の道路拡張工事は8.9千フルデンで賄え
た。工事人夫の日当の小ささが推測できる。

そのころ、バタヴィア市内を電車が走っていた。タナアバンからジャカルタコタへ、ある
いはメステルコルネリスからジャカルタコタへの乗車料金は一等車が20セント、二等車
が10セントだった。

タクシーを1日ハイヤーすると4〜6フルデンかかった。ハイヤーしない場合には、キロ
当たり30セントもしくは1分当たり10セントだった。


1921年にバタヴィア市庁が水道を引いた。ボゴールのチオマスを水源にして市内まで
水を引く工事が8千フルデンでできたそうだ。市内の家々に配水する工事がそのあと続け
られて1930年には31.26万キロメートルの配水網ができあがった。

植民地時代に東インド政庁はプリブミの衣食住生活が低コストで営めるように最大限の努
力を払った。それは果たして、本当に善いことだったのだろうか?

そのポイントに限定して最大限の努力を払えば、プリブミの収入を上昇させていくような
政策を執らなくて済むではないか。上流層が享受する情報通信・教育・スポーツ・趣味等
々は必然的に一般庶民にとって高嶺の花になり、プリブミの収入では手が届かないものに
なる。プリブミは肉体労働し、その収入でかれらが普段食べているものを腹いっぱい食べ
ることができるようにしてやればそれでよい、という統治方針ほど愚民政策を露骨に示し
ているものはないだろう。

オランダ時代にたいていの庶民はコインで生活していた。カンプンの住民のほとんどが、
5フルデンや10フルデン紙幣を見たことがなかったそうだ。上流経済層が紙幣で生活し
ていた一方で、実に対照的な暮らしが営まれていたのである。オランダ東インドで使われ
たコインには次のような種類があり、世界的に行われている百分の一よりももっと幅の広
いものになっていた。
2.5 gulden (ringgit) 1818 - 1945 つまり250セント
1 gulden (perak) 1821 - 1840 つまり100セント
1/2 gulden ( - ) 1826 - 1834 つまり50セント
1/4 gulden (uang/talen) 1826 - 1945 つまり25セント
1/10 gulden (picis) 1854 - 1945 つまり10セント
1/20 gulden (ketip/kelip) 1854 - 1922 つまり5セント
2 1/2 cent (benggol/gobang) 1856 - 1945 つまり2.5セント
1 cent (sen) 1855 - 1945
1/2 cent (peser) 1856 - 1945 つまり0.5セント
[金種(呼称)発行開始年 ー 終了年]

こうなると最高と最低の幅は100でなくて500ということにならないだろうか?たい
ていの国では100を超えれば紙幣の世界に入ったというのに、オランダ東インドでは5
00を超えなければ紙幣の世界に完全に入ることができなかったという見方がそこからで
きるかもしれない。[ 続く ]