「大郵便道路(25)」(2025年01月17日) バタヴィアという名称は最初、VOCが建てた要塞に付けられた。ところがVOC重役会 ヒーレン17はバタヴィアを要塞の名称でなく、町の名前にするように決定したのである。 バンテンのオランダ商館が分所をジャヤカルタに設けたことは上で書いた。クーンはその 商館を要塞に建て替えさせた。その時代の商館というものは商品や財産の蔵置場所を兼ね ており、頑丈で堅固な建物に衛兵が常駐して警備し、大砲まで据えていたのだから、同じ ものが使用目的によって名称が変わる一例に近いものだったのであはあるまいか。 要塞建設はクーンにとって、バンテンを引き払ってジャヤカルタに移転するために不可欠 な行動だったはずだ。1619年3月12日、要塞の完成が宣言され、クーンはそれをバ タヴィア要塞と命名したものの、VOC重役会がその命名に賛成しなかった。 塀で囲まれたバタヴィア城市の北東端にあって海から近付いて来る敵を一撃のもとに粉砕 しようと威勢を誇示している要塞をオランダ人は城と呼んだ。オランダ語の城はkasteel だ。つまりBatavia FortやBatavia RedouteでなくてBatavia Kasteelなのである。クーン の望んだその施設の名前はワンクッション置いて結局その通りに実現したことになる。 カスティルバタヴィアの四隅には外に向けて張り出したバスティオンが設けられ、それぞ れにサファイア、パール、ルビー、ダイアモンドという宝石の名前が付けられた。南西角 のバスティオンがダイアモンドだったために、プリブミはそのバスティオンの外周地域を kota intanと呼ぶようになった。 バタヴィア旧市街のカリブサール北部にある唯一の跳ね橋がコタインタン橋と呼ばれてい るのにはそんな背景がある。 1619年5月30日、オランダ人を追い払おうとしてイギリスと組んだジャヤカルタ領 主に対する大規模な反撃を行って、クーンはジャヤカルタの町を陥落させた。ジャヤカル タ領主は都を捨てて奥地に逃げ、イギリスもジャヤカルタから撤退した。廃墟と化したジ ャヤカルタの町がVOCによってオランダにあるような姿の町に再建された。 その街作りの労働力はジャヤカルタのみならずアジアの各地で捕らえた戦争捕虜と購入し た奴隷、そして中国南部海岸で拉致して来た華人から成っていた。クーンはバンテンで親 しくなったカピタンチナを招いてバタヴィアの町の建設に協力させている。バンテンのカ ピタンチナだったソウ・ベンコン(蘇鳴崗)は横滑りしてバタヴィアの初代カピタンチナ に就任した。 ジャヤカルタを陥落させてから一年の後には、クーンが集めさせた華人が8百人という数 に上っていたそうだ。バタヴィアの華人というのは、だから自由意志でバンテンから移っ て来た者たちと、中国本土から有無を言わさず拉致されてきた者たちで構成されていた。 戦争捕虜の多くはポルトガルの覇権を奪うために行った戦争で捕らえたポルトガル系メス ティ−ソと、プリブミ王国との戦争で捕らえた種々雑多なアジア人原住民だ。 その雑多な人種と種族の混合体がバタヴィアという町を作った。意思疎通のための共通語 は最初ポルトガル系メスティ−ソが使うアジア風ポルトガル語だったが、そのうちにムラ ユ語に推移し、バタヴィアムラユ語ができあがっていった。ムラユ=ブタウィ語あるいは 単にブタウィ語と呼ばれているムラユ語バージョンはヌサンタラの諸語が溶け込んだ独特 のムラユ語になっている。 しかもブタウィ文化には中華文化の影響が強く入った。特に音楽と舞踊の分野は中華風の 色合いが濃く感じられる。 いざ運河と道路が碁盤の目のようになったバタヴィアの町をヨーロッパ風の建物が埋め尽 くしたあと、バタヴィアの町の暮らしの中で社会生活の運営に華人が示す能力が顕著に目 立ってきた。特筆されるべき事項としては、華人は肉体労働者であり続けようとせず、商 売や事業を行うようになり、だんだんとバタヴィアの町の末端経済を握るほどの勢力を持 つようになったことだろう。VOC職員や他の移住してきたヨーロッパ人にそんな真似は できなかった。ましてや他のアジア系諸種族にしてもそうだ。白人支配層は華人の力に羨 望と嫉妬と不快感を抱きつつも、それをどうすることもできなかった、とプラムディヤは 書いている。[ 続く ]