「大郵便道路(27)」(2025年01月21日) みんなが他人をだましてその一部を掠め取った財とは他でもなく、末端農民が生産した物 産物資だったのだ。ダンデルスが去ったあとのジャワ島に乗り込んで占領し、ジャワ島に 5年間の統治時代を印したイギリス人は、ジャワ島の現状調査を行って呻いたそうだ。 農民が生産した収穫物の14分の13が統治支配者に取り上げられて封建構造社会を回転 させる原資に使われ、農民が自分の暮らしのために使えるものはわずか14分の1でしか なかったのである。その14分の1さえもが、市場の売場使用料、屠殺場での屠殺料、ア ヘン販売者の暴利などといった社会の独占体制が強いる高額出費に蝕まれていたのだ。 そのように暴利をむさぼる独占権を手に入れた者はオランダ語でpachtと呼ばれ、プリブ ミはその発音を模倣してpahと言った。当時の社会でパッと呼ばれていた者はたいていが 華人であり、かれらはVOCが行う権利の競売に金をつぎ込んでその権利を買い取ってい た。 オランダ国王から始まって統治支配機構の上層部、その下のブパティや下級貴族から下っ 端係員に至る連鎖に関わったすべての者が農民を食い物にしていたのだ。そんな過酷な環 境の中でジャワの農民はどうやって生きているのか?イギリス人はその答えも用意してい た。肥沃なジャワの大地がかれらを養っている。 ジャワ島の大地の上に構築された統治支配構造はヨーロッパ人が来る以前からそうであり、 来た後でさえそのまま維持された。最下層農民の生産がその構造を支え続けていたのだ。 歴史に名前も残らないジャワの最下層農民たちは構造的な重圧の下ですべてを諦めていた。 警察すらかれらを保護しないのだ。時に殺人の被害者になっても、世間には波紋も立たな い。かれらは生活保全のために自費でジャゴアンを雇い、外から加えられる迫害に備えな ければならなかった。 1942年に日本軍がバタヴィアを占領して町の名前をジャカルタに替えた。プラムディ ヤ・アナンタ・トゥルはその年の7月に故郷のブローラを離れてジャカルタに移った。か れがはじめて目にしたジャカルタの街は優美で清潔で、ヨーロッパコロニアルの首都とい う印象を与える景観が随所に残されている都会だった。かれの知っているスラバヤの街よ りもずっと文明的であるようにかれは感じた。 ところが日本軍政の3年半の間にそれらの風景は消滅し、街のいたるところが破壊されて 放置されたままにされ、オランダ時代とは比べようもないほど醜い姿に形を変えた。日本 軍のトラック・戦車・装甲車が走り回り、道路や建物の構造がそれに耐えきれずに崩壊し たのだ。街中の道路の両脇に雑草が背高く密生して繁茂した。 1945年8月が近付くころには、歩行者の足元をしばしば死体が邪魔した。だれも何も してやれないまま飢餓で死んでいった市民の死体だ。市民のだれもがそのような結末を迎 える可能性を持っていた。 そんなジャカルタが8月17日によみがえった。独立宣言の町ジャカルタが飢えた民衆に 希望を与えた。ひとびとは死に向かってにじり寄せている自分の飢餓を忘れてムルデカの 叫び声をあげる元気を回復したのである。 しかし戦争の勝者イギリス軍と植民地の再開をはかるオランダ政庁、そして敗者の日本軍 が一緒になってムルデカを押しつぶすために銃口を向けてきた。ろくに武器を持たないイ ンドネシア共和国の国民はそれに立ち向かった。革命が始まったのだ。プラムディヤもそ の中にいた。 1947年、プラムは捕まってブキッドゥリの監獄に入れられた。収監者には強制労働が 命じられる。オランダ人はジャカルタを昔のバタヴィアが持っていた優美で清潔な姿に戻 そうとし、日本軍が荒らした街中を修復させる仕事を収監者に与えた。 道路脇の雑草を刈り取り、壊れた道路や建物を整頓し、壊れた武器兵器が捨てられている ごみ溜めを掃除した。大通り、ガンビル広場、兵舎・・・。作業はジャティヌガラからタ ンジュンプリオッまで広域に及んだ。[ 続く ]