「大郵便道路(28)」(2025年01月22日) < メステルコルネリス Meester Cornelis > 日本軍政が始まってから、この地名はジャティヌガラに変更された。バタヴィアがジャカ ルタに改名されるのと同時にその変更がなされ、治(オサム)政令が発出された。 ジャティヌガラという地名の由来はよくわからない。スンダ語のngejat ti negaraが語源 だと語るひとがいる。そのスンダ語は「国の中心から去る」を意味していて、VOCに乗 っ取られたジャヤカルタの領主パゲラン アッマッの心情を語るものになっている。別の 語源説ではジャワ語のsejating nagara、真の国家つまり民衆統治の理想像、を意味して いると言うのである。しかしジャワ語のingは位置を示す前置詞であるため、わたしには スジャティンナガラは国家の持つ真実真相という意味になるように思われるのだ。 そうであるなら、jati negaraをDM法則で解釈するのでなく、サンスクリット語のMD 法則に従って解釈すれば「真の国家」になるのではあるまいか。 オランダ時代にオランダ人はこの地名をコルネリスと省略したが、インドネシア人はメス テルと呼んだ。わたしが1970年代にジャカルタでインドネシアビギナーになったころ、 メステルと呼びならわしている人は少なくなかった。いくらジャカルタの地理に明るくて も、これだけは歴史を知らなければどうしようもない。 ジャティヌガラという地区は限られた広さの土地に教育施設や病院などが集まっている印 象をわたしは早くから感じて、ジャカルタの他のエリア、特に中心部にそのような濃密さ が感じられないために不思議に思ったことを記憶している。1935年までメステルコル ネリスはバタヴィアと別の独自の市であり、1936年1月1日に両者が合併してへメン テバタヴィアになったという歴史を知って、何となく腑に落ちた気がした。 わたしが南ジャカルタのパサルミングに住んでいたころ、アンチョルや北部のショッピン グ街へ遊びに行くと、帰りはグヌンサハリを下ってジャティヌガラを通り抜けることが多 かった。マトラマン通りを南下して高架鉄道の下をくぐると、正面にコイノニア教会の特 徴的な姿が見える。そこを通るたびにいつも感動を覚えたものだ。 この地名はコルネリス・スネンという人名から取られたものだ。コルネリス・スネンはバ ンダ群島のロントル島から戦争捕虜としてバタヴィアに連れて来られたという説があり、 また別説として、バンダにいたころからかれはポルトガル系プラナカンのカトリック神父 であり、聖書を教える宗教師だったと述べている説もある。そしてスペイン語ポルトガル 語英語オランダ語を話せたから、オランダ人がメステルの尊称をかれに与えた。オランダ 語meesterは英語のmasterに対応しているが、オランダ人がプリブミ神父にその称号を与 えたのはどうしてだったのだろうか? VOCの戦争捕虜はつまり奴隷である。ポルトガル系メスティ−ソやポルトガル人に協力 するインド人カトリック教徒がオランダとの戦争に敗れて捕虜にされ、バタヴィアの奴隷 になった。ポルトガル人より強いオランダ人が新興都市バタヴィアをジャワ島に建設した とき、たくさんいるカトリック教徒奴隷のための神父が求められていることを聞いてかれ は1621年にバタヴィアに移住した。 ところがVOCはかれにその仕事を与えるかわりに奥地の土地を与えて、その地の開発を 行わせた。チリウン川からチピナンまでの5平方キロの土地がかれの私有地になった。V OC時代のメステルコルネリスは私有地であり、そこではヤシ農園、水田や畑、サトウキ ビ農園などが営まれていた。 しかし別の資料には、コルネリス・スネンがその土地を開いたのは1650年代だったと いう記載がある。かれは1661年に没した。[ 続く ]