「福建語好きのイ_ア人(7)」(2025年01月22日)

1950年に平和なインドネシア共和国ライフが開始されたころ、スピチスではガドガド
が一皿買える程度になっていた。そのころ少年だったアルウィ・シャハブは一日の小遣い
にスピチスをもらっていて、数日間貯めると映画館に入ることができた。その当時、ce-
tunあるいはseperakあればチキニのガーデンホール映画館でロジェやバルコンと呼ばれる
一等席に座ることができた。二等席ならもっと廉い。

バタヴィアのタナアバンに近いクボンジャヘにバタヴィア初の常設映画館が1900年1
2月4日にオープンしたとき、入場券の料金は一等席がno-tun、二等席はgo-capだった。
「プリブミは一日スべンゴルやスゴバンで生活しているよ。」とオランダ人が述べていた
その時代にゴチャップはあまりにも高額だった。

その後、プリブミも映画を見られるようにするためシステムが改良されて、一等席1.5
フルデン、二等席75セント、三等席50セント、四等席10セントとなり、プリブミは
10セントで映画が見られるようになった。ただし座席はなくて、スクリーンの一番手前
にしゃがんで銀幕を見上げるのである。庶民はkelas IVを別名kelas kambingと呼ぶよう
になった。

映画館では、たとえ金があっても一等席二等席にプリブミは入れなかった。軍人(下士官
と兵士)には割引があり、どのクラスでも半額で入れた。軍人半額制度は1950年代で
も続けられた。

1910年代にバンドン郊外に建てられた映画館は竹で作られていて、上映映画のポスタ
ーが外に貼りだされて通行人を誘惑した。ジゴマ、エディ・ポロ、マチステなどのスター
が主演する映画がかかると、ファンが映画館に殺到した。入場券を買う余裕のないプリブ
ミ層も、映画館の近辺をうろついてポスターを楽しんだ。映画内の1シーンが描かれたポ
スターを眺めてストーリーを想像し、主演俳優の顔や姿を品定めして自分のごひいきスタ
ーを決めた。


スカルノはオランダの植民地統治の裏側に流れている愚民政策を読み尽くしていたようだ。
1932年に書いた植民地批判の中でかれは、少額の支出で生活できるプリブミの経済レ
ベルを貧困と呼んだのである。人間はただ食って生き延びればそれでよいというものでは
ないことを指摘したにちがいあるまい。
「インドでは庶民が一日10セントで暮らしている。インドネシアのマルハエンは仕方な
く一日2.5セントで腹を満たして生きている。帝国主義のなんと残酷なことか。」

1942年に日本軍がやってくる前のころでも、6人家族が一日に支出する金額は1フル
デン前後だった。アスピリンが1錠2セント、灯油1缶2フルデン、白飯に普通のおかず
が添えられたナシチャンプルが一食2.5セントで、それで十分に腹が満たせた。


インドネシア近代史の中で、1900年以降のオランダ東インドが最高の繁栄を謳歌した
時代を歴史家はしばしばノーマル時代zaman normalと呼んでいる。それは世界大恐慌に襲
われた時期をアブノーマル時代と見て、それに対照させた表現と考えられる。きっと物価
がたいへん安定していたその30年間をひとびとは正常な時代と意味付けたのだろう。

大恐慌は1929〜1930年に峠を越えたものの、その後遺症は数年間続いた。インド
ネシアでは1939年に後遺症が終わったと考えているひとが多い。そうであっても、オ
ランダ東インドが蒙った大恐慌の打撃は他の諸国に比べて軽かったと見られたために欧米
からの人の移住が増え、東インドで上級知識階層が厚みを増したと言われている。

そのノーマル時代の物価の様子をアルウィ・シャハブがまとめた記事があるので、下記し
たい。既述の内容とダブっていたり、あるいは時期が食い違っている可能性もあるが、そ
れがインドネシア語情報の中に横たわっている赤裸々な姿と認識していただければ訳者と
しては幸いです。[ 続く ]