「シャステレイン(1)」(2025年01月28日) フランス人のアントニー・シャステレインはユグノーであり、有能な商人だったが新教徒 への圧迫を嫌ってオランダのアムステルダムに移住した。そしてオランダ東インド会社ア ムステルダム支部を代表する取締役になった。つまりヒーレン17のひとりになったとい うことだ。 アントニーの妻、マリア・クリュイデニエは南オランダにあるドルドレヒトの市長の娘で、 かの女の父親はオランダ西インド会社の管理職のひとりでもあった。その二人が夫婦にな って設けた家庭に子供が8人生まれた。1657年8月10日に生まれた末っ子の男児に はコルネリスの名前が与えられた。 そのときまだ17歳だったコルネリスは父親に命じられて1675年1月24日にバタヴ ィアに向かう東インド会社の船に乗り、その年の8月16日にバタヴィアに到着した。か れのバタヴィアでの職務は会計員だった。 1682年にGrooten Winkel te Bataviaの大規模店主になり、1691年にはバタヴィ アの店主の中でナンバー1の富裕者になった。このバタヴィアのフローテンヴィンケルと いうのは多分ショッピングセンターなのだろう。解説をオランダ語ネットで探してみたが 見つからなかった。ヴィンケルというは英語のショップのことだが、手仕事の作業場とい う意味もある。その副次的な語義の方がインドネシア語に入ってbengkelになった。 その年にかれはバタヴィアカスティル内で二等上級商務員に昇格したものの、バタヴィア VOCはかれに名誉退職を命じた。かれの上司になっているヨアン・ファン ホールン総 業務長との間の確執がその原因だったと言われている。 そのために1691年から1704年まで、かれはバタヴィアの非VOC居住者になった。 バタヴィアはVOCの領地であるため、VOCの職員をはじめとしてVOCとの関わりで 住んでいる人間がオフィシャル居住者であるとするなら、VOCを退職したかれはプライ ベートにそこに住んでいる人間ということになる。 VOCは最初のクーンの時代から、バタヴィアの町を栄える大都市にするために技能を持 っている人間をヨーロッパからたくさん誘致していたので、VOCと無関係のプライベー ト居住者であっても肩身の狭い思いをするわけではない。VOCの規則に従うかぎり、立 派な市民として暮らすことができた。 その時期かれは、バタヴィアの南部エリアの数カ所でジャングルを切り拓いて農業開発を 行った。バタヴィア〜バイテンゾルフ中央街道のポスト17地区を1695年に、そして ポスト21地区を1696年に購入している。ポスト17地区とはバタヴィアから15キ ロ南のシリンシン(現在のSrengseng)、ポスト21地区とはバタヴィアから32キロ南 の現在のDepokだ。かれはデポッの地所をチルボンのレシデンであるルーカス・ファン デ メウルから3百レイクスダルダーで購入した。 デポッという名称は、チリウン川とパサングラハン川にはさまれた広大な土地でバタヴィ ア城市から一日がかりの距離であることを意味して使われたと書かれている記事があるの だが、それであればスンダ人がそのころそこを既にデポッと呼んでいたことになるのでは あるまいか?シャステレインが購入したその土地は4.5ルーデx2.5ルーデだったと 記録されている。1ルーデは3,767メートルだ。[ 続く ]