「シャステレイン(2)」(2025年01月30日)

コルネリス・シャステレインは他にもガンビル、マンパン、カランアニャル、チリウンな
どに土地を持っていて、そこでコーヒー・サトウキビ・コショウ・コメなどの商品作物栽
培を行った。

バタヴィアにもっとも近い位置にある今のガンビル地区の土地を拡張するために1704
年、周囲の土地を購入して農園を作り、かれはその地をヴェルテフレーデンと名付けた。
かれはそこでコーヒー栽培をトライしたので、東インド最初のコーヒー農園がヴェルテフ
レーデンに誕生したという話になっている。そこには動物園も作られた。

デポッではコショウ栽培がおこなわれた。しかしデポッではコショウだけでなく、藍・カ
カオ・ライム・ナンカ・シルサッ・ブリンビンなども栽培された。また自家消費のために
サトウキビやヤシなども作られている。ヴェルテフレーデンでもコーヒー以外の作物が栽
培されたのは間違いないだろう。


かれは1686年に「オランダ東インドに関するわたしの考察と判断」と言う論文を書い
ている。独占通商方式を弱め、農業生産を行い、原住民を教化するべきだというのがかれ
の展開した主張だった。ヨーロッパ人が行っているアジアでの搾取行動への不賛成をかれ
は公に表明したのである。

VOCが東インドで百年間にわたって行い続けているアグレッシブではなはだ強圧的なビ
ジネス手法では、地場支配者を軍事的に制圧してVOCの支配下に置き、VOCに有利な
条件で通商契約を結んでそれを実行させるあり方になっている。それが本当に通商と呼べ
る行為なのかどうかは疑問だ。会社の方針に賛成できなくて精神的に苦しむ中堅社員の先
駆けのひとりがかれだったのは間違いあるまい。

かれのもうひとつの不賛成事項は奴隷売買だ。バタヴィアは奴隷の街であり、奴隷売買は
VOCのビジネスのひとつにもなっていた。しかし奴隷制度がバイブルに反する行為であ
ることをシャステレインは確信していた。かれは自分の奴隷たちを解放することに努め、
プロテスタント教徒に改宗させて身分の確定を社会的に明らかなものにさせた。オランダ
人社会は同じプロテスタント教徒を奴隷にしなかったからだ。


デポッでバリ・マカッサル・マルク・ティモール・ロテ・ジャワ・フィリピンなどの出身
者から成っていた奴隷たちが解放されて、キリスト教徒としてファミリーネームを与えら
れた。だからデポッ私有地が作られた時から住んでいた住民はLeander, Samuel, Laurens, 
Jonathans, Loen, Jacob, Joseph, Bacas, Tholense, Isakh, Soedira, Zadokhの12の
姓のどれかを持っていて、それは今日までも続いている。しかし男児が生まれなかったた
めに子孫が消滅したファミリーもある。もちろんそれらの姓を持っているインドネシア人
キリスト教徒は他地方にもたくさんいるから、その姓を聞いてブランダデポッの子孫だと
思い込んではいけないのである。

12姓の中に見られるキリストの使徒の姓はシャステレインが与えたもので、その他の姓
は奴隷たちが元々持っていたものだという説がある。バタヴィアの奴隷にはポルトガル系
メスティ−ソやカトリックに入信した親ポルトガル派アジア人たちが含まれていた。
同じ新教徒を奴隷にすることはなかったが、カトリック信徒の捕虜をオランダ人は奴隷に
し、プロテスタントに改宗すれば奴隷身分から解放して自由人にした。シャステレインの
奴隷の中にカトリック教徒がいたことを上の説は示唆している。[ 続く ]