「シャステレイン(3)」(2025年01月31日)

しかしイ_ア語記事の中に、それらの奴隷たちをシャステレインは1693年と1697
年にかれらの原住地から呼び寄せた(つまり買い集めた)と表現しているものが複数見ら
れる。つまり既にバタヴィアに来ている奴隷を買い集めたのではないという意味にそれは
解釈できるのである。もしそれが記事筆者の誤ったイメージが書かせたものでないのであ
れば、奇妙に感じられるその行動に果たしてどんな合理性があったのだろうか?

更に上述の12姓についても違う話があって、シャステレイン自身は改宗した奴隷に姓で
なくてヨーロッパ風の個人名を与えていたと言うのである。Jarong van Baliを土地管理
の頭領に据え、他の仕事に関する頭領の地位をLouys van Makassar, Gabriel van Bali, 
Jan van Bali, Alexander van Makassar, Lambert van Bali, Singi van Bali, Daniel 
van Makassarの7人に与えたという記録が見られることから、12姓は1871年に東イ
ンド政庁がHet Gemeente Bestuur van Het Paticuliere Land Depok(デポッ私有地行政
府)を公式に認定したあと、住民登録の関連で姓を名乗ることがプリブミキリスト教徒の
間で始まったために住民たちが姓を選択した可能性をその説は述べているのである。そう
であるのなら、その12姓は宗教がらみでなくて近代市民登録制度がもたらしたものと言
えそうだ。しかしこの説にも弱点がないわけではないのである。


シャステレインは自分の私有地を外の世界と切り離された別天地にしようとした。大自然
と共存しながら自給自足を行って豊かに満ち足りた暮らしが営める天地、キリスト教が教
える理想的な人間の生活が営まれる楽園という意味における別天地がそれだ。

デポッ私有地の外の世界にある文化に親しむと、解放奴隷たちはプロテスタントの教えか
ら逸れて堕落してしまうおそれが高い。デポッの中に外の世界の価値観や生活習慣が混じ
りこんではならないのだ。そのため、プロテスタントの教えを自らの生活の指針にしてい
ない者がその別天地に入り、あるいは暮らすことをかれは拒否した。

かれはデポッで暮らす奴隷たちに、私有地の境界線になっているチリウン川の対岸の人間
と交際しないように命じたし、おまけに私有地内で生産される農産物を買いに来るバタヴ
ィアの華人商人にも私有地内に入ることを禁じた。バタヴィアが虚栄の都であることを知
っているかれにとっては、当たり前のことだったのだろう。


1704年、かれはVOCの人間に戻ってバタヴィアの特別議会に参加し、そして170
5年には常設されている東インド参議会の議長に選ばれた。1708年11月から350
フルデンがその役職報酬としてかれに支払われている。かれは1714年6月28日にデ
ポッの自邸で死去するまでその役職に就いていた。

かれの妻のカタリナ・ファン クエルボーフはかれの従姉妹だったと考えられている。ふ
たりの間にはひとり息子のアントニーが生まれた。そして混血の娘を養女にしてマリア・
シャステレインという名を与えた。

シャステレインは死去する数カ月前に遺言書を作った。1714年3月13日の日付で書
かれたかれの遺言書には、150人(別説では120人あるいは200人などさまざま)
いる解放奴隷たちにデポッ・マンパン・チネレなど5区画の土地を与え、かれらがいつま
でもその土地で暮らせるようにし、各自に与えられた所有地の売却や抵当・貸出あるいは
権利の譲渡を一切行ってはならないことが明記されている。

またプロテスタント教徒となった解放奴隷たちは賭博・アヘン・性的罪悪を行ってはなら
ず、そのような者があれば行政は違反者を捕らえて強制労働や罰金を科すように、とも書
かれている。そしてかれらが飼っている3百頭の牛、ガムランオーケストラを2セット、
銀で装飾された槍を50丁、その他さまざまな道具類が遺産として解放奴隷たちに与えら
れた。[ 続く ]