「大郵便道路(32)」(2025年01月30日)

ある歴史家はデポッの地名の由来について、パジャジャランとバンテン=チルボン間の戦
争の際にパジャジャラン王国が軍隊の戦闘訓練のためにその地にパデポカンを設けたとい
う地元古老の話を書いている。場所はパクアンパジャジャランとスンダクラパの間のチリ
ウン川に近い場所だったそうだ。インドネシアでは歴史的に水路が交通路になっていたか
ら、人口が少なかった時代の居住地区はたいてい川沿いにできた。

ここでのパデポカンの意味は瞑想場所でなくて塾、更には稽古の場所、という現代インド
ネシアで一般的な用法になっている。唄や踊りなど伝統芸能の教場あるいはそれを教える
塾のことを指して、パデポカンという言葉を現代インドネシア人は使っている。

しかしまた別の歴史家はKramat Bejiにバンテンイスラム軍の武器蔵があったことを採り
上げて、パジャジャラン軍でなくバンテンイスラム軍の戦闘訓練パデポカンがあったのだ
と異説を唱えた。この説に賛同する歴史家は、パデポカンという言葉がよく使われるよう
になったのはイスラム時代であり、ヒンドゥ時代はマンダラという言葉で呼ばれるのが普
通だったという解説を述べた。

イスラムのパデポカンではイスラム教義を深めた師が生徒を集めて共同生活を行い、イス
ラム原理に従って生活する塾の形態になっていた。いわゆるプサントレンだ。その塾では
日中に農耕作業が行われ、夕方から宗教学習が行われた。農耕作業だけでなく、身を守る
ための格闘技も教えられ、時には集団で戦闘訓練もなされたそうだ。ヒンドゥ時代でも山
中の教育塾ではそれと同じようなことが行われていた。

ジャワ島のイスラム化によって宗教文化が大変動を起こしたものの、ヒンドゥ=ブッダ時
代の民衆の生活習慣はあまり大きな変化を受けず、名前や体裁がイスラム風のものに変化
しただけで実質的な内容の大枠はたいていがそのまま継続された。
この話の詳細は拙著「中華イスラム」 
http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-110_ChineseMuslim.pdf
をご参照ください。


シャステレインは自分の私有地にかれが善と信じているキリスト教の理想世界を築こうと
した。キリスト教が教える理想的な人間の生活が営まれる楽園をそこに築こうと言うので
ある。そのために、デポッの外を取り巻くイスラム世界にせよ、華人やインド人にせよ、
プロテスタントの教えを自らの生活の指針にしていない者がその土地で暮らすことをかれ
は拒否した。同時に、その私有地で暮らす解放奴隷たちに、私有地の境界線になっている
チリウン川の対岸の人間と交際しないように命じた。

私有地内で生産される農産物を買いに来るバタヴィアの華人商人も私有地内に入ることを
禁じられた。華人たちは仕方なく、私有地の北側にあるカンプンボジョンに俄か作りの小
屋(pondok)を建てて、取引が終わるまでの期間をそこで過ごした。そのためにその地区
はポンドッチナと呼ばれるようになり、現在その地名はデポッ市の郡としての正式名称に
なっている。

このデポッのポンドッチナに関する限り、華人が集落を作った痕跡がその地になく、多く
のひとびとがその命名に疑問を抱いているのが実情で、シャステレインの方針から派生し
たものであることを解説されなければなかなか疑問は晴れないだろう。[ 続く ]