「大郵便道路(33)」(2025年01月31日) 1714年3月13日の日付でシャステレインが遺した遺言書には、150人(別説では 120人あるいは200人などさまざま)いる解放奴隷たちにデポッ・マンパン・チネレ など5区画の土地を与え、かれらがいつまでもその土地で暮らせるようにし、各自の所有 地の売却や抵当・貸出あるいは権利の譲渡を一切行ってはならないことが記されている。 またプロテスタント教徒となったかれらは賭博・アヘン・性的罪悪を行ってはならず、そ のような者があれば行政は違反者を捕らえて強制労働や罰金を科すように、とも書かれて いる。もちろん行政とはシャステレインの私有地内に設けられた自治行政のことだ。VO C時代のバタヴィア行政も、植民地体制に変わったあとでも、総面積1,244Haのデポ ッ行政区画内では私有地としての自治が認められ、一種の治外法権が行われていた。 自治行政を担う行政体では最高責任者がPresidentと呼ばれ、行政府は独自の建物を設け てそこで業務を行った。その建物は現在ハラパン病院になっている。オランダ東インド植 民地政庁はそのデポッ私有地行政府を1871年に公式に認定し、Het Gemeente Bestuur van Het Paticuliere Land Depokを公式名称とする決定書が出された。オランダ時代が終 わるまで、デポッは独立した自治行政区画になっていた。 バリ・マカッサル・マルク・ティモール・ロテ・ジャワ・フィリピンなどの出身者から成 っていたシャステレインの元奴隷たちは12のファミリーネームを持つデポッ私有地の住 民になった。Leander, Bacas, Loen, Samuel, Joseph, Laurens, Jonathans, Tholense, Isakh, Jacob, Soedira, Zadokhがそれだ。しかし男子が生まれなかったために子孫が消 滅したファミリーもある。1915年には、先祖代々伝えられてきた諸権利を持っている デポッ住民は748人にのぼっていた。2010年ごろは8百世帯くらいあるという話に なっていたから、人口では3千人を超えていたのではあるまいか。 言うまでもなく、キリスト教の生活規範で運営されているデポッ私有地の住民は周囲をム スリムのプリブミに囲まれていた。ただしかれらムスリムを支配していたのはヨーロッパ 人や華人の地主層であり、ステータス的に一般庶民だとはいえ自治を行っている自分たち の威厳をデポッ住民がどのように感じていたかをそこから推察できるにちがいあるまい。 かれらは周辺のムスリム住民に自分たちをトアンと呼ばせていたそうだ。キリスト教地区 であるデポッの権威を高めるために1879年には神学校がオープンしている。 ムスリム社会は反対にかれらデポッ住民をBelanda Depokと呼んだ。プリブミが相手をト アンと呼ぶのは西洋人に対する行為だ。デポッ住民をどう眺めてもオランダ人には見えな い。実際にかれらにはオランダ人の血が一滴も入っていないのだから。しかしデポッ住民 は自分をトアンと呼べと言うのである。注釈の付いたオランダ人と見なすほかないだろう。 今ではほとんど耳にしなくなったこの言葉も、1970年代ごろには時おり会話の中に登 場することがあった。若者同士の交際で相手の一家がやたらと権高な態度をとるから不思 議に思っていたら、なんとブランダデポッだった、というような話がインドネシア初心者 時代のわたしの記憶の中にある。 ブランダデポッは今や総勢で8千人になるという話だ。かれらの多くはデポッラマと呼ば れる旧地区に住んでいるが、デポッ市内の他地区やインドネシア全土に散らばって行った 者たちもおり、オランダに移住した家庭もある。デポッラマは現在のパンチョランマス郡 になる。多分、プムダ通りの一帯が中心地区になっていたように思われる。旧シャステレ イン邸はその72番地にあり、またイマヌエル教会やハラパン病院もプムダ通りに面して いる。その辺りには古いオランダ風の建物がまだ30軒とか50軒とかという数で残って いるそうだ。[ 続く ]