「大郵便道路(34)」(2025年02月03日) かれら自身の中に、インドネシア共産党がかれらを敵視してブランダデポッという言葉を 使い始めたのだと語る者もいる。その解説によれば、インドネシア民族精神が薄く、そし てクリスチャン信仰心が篤いために共産党のテーゼに従って宗教アヘン中毒者と見なされ、 誹謗して社会的イメージを失墜させるためにそんなことを行ったのだそうだ。少なくとも、 植民地支配者の真似をしている被支配民族の一集団というポイントを責めているのは間違 いないだろう。 実際に男子青年たちはオランダプラナカン青年に対する呼称であるSinyoと呼ばれること を好み、オランダ語で会話し、オランダ文化を身に着けて疑似オランダ人として1970 年代ごろまで振舞っていたという話もある。 オランダ時代のデポッ人ライフを体験した古老によれば、当時青年だったかれを私有地外 のひとびとはシニョと呼び、かれの父親をトアンと呼んでいた。デポッ人は広い土地を自 分の資産として持ち、豊かな生活をエンジョイしていた。貧困の真っただ中にいる近隣の カンプン住民の暮らしとは対照的だった。 カンプン住民の中にはかれらの家で下男や女中に雇われた者も少なくない。路上でかれら とすれ違うときには、カンプン住民は「タビッ」と言いながらお辞儀をする社会習慣にな っていた。帽子をかぶっていれば、帽子を取って胸に当てながら「タビッ」と言ってお辞 儀するのである。 かれらシャステレインの奴隷の子孫たちはオランダ語を学び、オランダ式教育を受け、オ ランダ人のように生活し、オランダ人のように振舞った。パーティがあると、オランダの 音楽が流され、ワルツ・チャチャ・ジャイヴなどをみんなが踊った。古老の中にはいまだ に妻との会話をオランダ語で行っている者もある。 インドネシア大学オランダ文化専門家も、デポッ人社会では老齢者が集まる機会があると、 若い者の結婚式などでさえ来客たちがワルツを踊るプログラムがあったりするし、葬式の 際には故人の衣服を欲しい人間に進呈したりしていて、オランダ文化がいまだに根付いて いる印象を受ける、と語っている。 しかし現代のブランダデポッの青年たちは自らのアイデンティティをインドネシア国民の ひとりとしており、特別にオランダ語を学ばないかぎりオランダ語を使える者はもういな くなっている。その状況がきっとブランダデポッという蔑称としての固有名詞を死語にし たにちがいない。 血統とはまったく無関係に疑似オランダ人として振舞っているだけのプリブミであるかれ らをその昔、東インド政庁は仲間扱いして公務員に雇用したり、教育の便宜を与えたりし た。被支配者の一部を支配者側に組み入れることは大きなメリットをもたらすものなのだ。 ましてや数百年間にわたってキリスト教世界をイスラムの土地の中に維持してきた者たち なのである。 しかし被支配者であるプリブミの視点からそれを見るなら、ブランダデポッは容認するべ からざる連中になるのが明らかだった。そうして悲劇が起こった。 1945年8月17日に共和国独立宣言が発せられたあと、そのユーフォリアの中で共和 国国民となったひとびとの間に反オランダ・反日本の気分が盛り上がった。反日本は武器 兵器の奪取、行政やインフラ運営の最高権限奪取などの形で進められた。言うまでもなく、 衝突事件も多数発生した。 オランダについては日本軍がインドネシア社会から消滅させたものの、デポッ周辺地域の プリブミたちの目の前に相変わらずオランダの形骸が生き残っていた。日本軍はブランダ デポッ社会を取り潰さなかった。あの土地をインドネシア共和国にしなければならない。 あの土地を取り戻し、あそこで暮らしている連中を海に追い落とさなければならない。 [ 続く ]