「大郵便道路(35)」(2025年02月04日)

オランダ時代にオランダ系プラナカンはオランダ人と見なされ、オランダ文化を身にまと
って自らをオランダ人と自認した。ところが日本軍の統治方針の中では、アジア人とオラ
ンダ人の混血子孫はアジア人種であると見なされた。その結果、オランダ系プラナカンは
敵性人としての抑留措置を免れ、キャンプ生活を強いられず、インドネシア人社会の中で
目立たないようにひっそりと生活することができた。ましてやブランダデポッはオランダ
人の血を一滴も受け継いでいないのだから、抑留キャンプとは無縁だったのである。しか
しインドネシア人はそう見なかった。

日本軍政期に巷でひっそりと暮らしたオランダ系プラナカンは全国に大勢いたはずだが、
かれらは集団社会を作らなかった。一方、ブランダデポッは数百人という集団社会がそこ
にあり、住民たちはオランダ人もどきの社会生活を続けていたのだ。アンチオランダ精神
がそちらに引き付けられたのも無理はあるまい。


1945年10月1日、ボゴール州長官イジョッ・ムハンマッ・シロスはボゴール州がイ
ンドネシア共和国に所属したことを公表した。州内は歓喜の興奮に湧きたった。ただデポ
ッの中心部だけが冷たい静けさに包まれていた。紅白旗は一枚も見えず、ムルデカの叫び
声も聞こえない。

デポッ周辺地域のインドネシア共和国国民たちの間で、あそこの連中への怒りが沈潜して
行った。血気にはやる青年たちが1945年10月7日に行動を開始した。地元のパサル
で監視を行い、共和国の敵と考えられる人間に商品を売らないよう販売者に強制しはじめ
た。オランダ系プラナカンもブランダデポッも食材を買うことができなくなった。

そのボイコットを体験したブランダデポッの古老は、その時期デポッ一帯のパサルにコメ
がなくなっていたので、ボゴールまでコメを買いに行ったそうだ。そして買ったコメを持
ち帰るために乗ったバスがターミナルに着いたとき、インドネシア人青年たちにコメを取
り上げられてしまったと思い出を物語った。

そんなことが数日続いたあとの10月11日朝、黒ずくめの服を着た大勢の青年が武器を
手にして家々を包囲し、そして各家に押し入った。住民はその突然のできごとに驚き、家
から森に、農園に、水田に逃げ出し、身を隠して夜を明かした。翌朝、家に戻ったかれら
は家の中が荒らされ、空になるほど略奪されていることを知って呆然とした。

するとかれらが戻るのを待っていたかのように群集が現れてかれらを捕らえた。女子供は
デポッ私有地行政府の建物に連れて行かれ、男たちは列車に乗せられてボゴールのパレダ
ンに運ばれた。パレダンに監獄があったのだ。その日の夜、ゴロッ(鉈状の刃物)を手に
した男たちがケルクストラアト(今のプムダ通り)で荒れ狂い、10人が殺された。アウ
グス・スディラの家族のひとりとドゥ ブラウンの一家9人がその被害者だった。


実際には、青年層を中心にする群集がイスラム指導者に率いられてやってきたのが真相だ
ったそうだ。西からはカンプンリモ・チネレ・ガンドゥル・ポンドッラブ・パンチョラン
マス・マンパン・グロゴルの住民、南からはボジョングデとチタヤム、東からはチマンギ
ス・チパユン・シダムクティ・チヘラン・チルンシ・チサラッ・シンダンカルサ・ブカシ
・クレンデルの住民、そして北からも。

侵入者たちは各家からベッドのクッションを路上に持ち出してビリビリに引き裂いたため
にカポッ綿が路上を覆った。まるで雪が積もったようになったと目撃者は語っている。そ
んなことをしたのは、黄金や宝石を隠しているかどうかを調べるためだった。金庫やタン
スの中身は影も形も無くなっていた。

この事件はインドネシア現代史の中でGedoran Depokと呼ばれている。インドネシア語で
はドアを大きな音でドンドン叩く行為が一般にgedor pintuと表現されているために、こ
このgedoranはプリブミ青年たちが家に押し入る際にドアを開けさせようとして強圧的に
ドアを叩き揺さぶったイメージを喚起しがちであり、イ_ア語記事の中にそういう説明が
いくつも見られる。[ 続く ]