「大郵便道路(36)」(2025年02月05日) しかしKBBIによればmenggedorには強奪するという意味が第二義として記されており、 この事件は自然発生的なものでなくてプリブミ側が計画したデポッの土地の強奪作戦だっ たことを推測させてくれる。現に、デポッの地を強奪する政治的な作戦行動だったと述べ ている記事もあるし、NICAが作成したデポッにおける10月11日の事件に関する報 告書にも組織的行動だったと書かれている。 グドランデポッという言葉はデポッで起こったグドランという意味よりもデポッをグドラ ンするために行われたものという解釈のほうが多分適切なのだろう。しかしそのためにブ ランダデポッの住居のドアが実際にグドルされているのだから、ふたつの意味がかけられ ているようにも思われる。 プリブミに拉致されて収監されたかれらをインドネシアに戻ってきたNICAとAFNEI軍 が解放した。しかしデポッに戻してもまた襲撃されると考えたのだろう、かれらはボゴー ル市内中心部のパレダンからボゴール北部クドゥンハランのキャンプに移された。 かれらがデポッの自宅に戻ったのは1949年のハーグ円卓会議が始まった後のことだっ たようだ。1949年にプリブミによる収監から解放されてやっと家に帰ったと書いてい る記事も見られるが、日本軍がボゴールに設けた抑留者キャンプをAFNEIが解放したにも かかわらずブランダデポッのひとびとを解放しなかったとは考えにくい。 グドランデポッ事件が原因でオランダに移住した一家もある。マルクのひとびとが多数、 オランダに移住したのとよく似た背景になっていると思われる。 NICAとAFNEI軍はデポッにも進軍してきた。そのとき、グドラン事件後のデポッはイ ンドネシアの国軍と地元青年たちの支配下に置かれていた。そして1945年11月16 日に戦闘が起こり、プリブミ軍が勝利した。その戦闘で活躍し、戦死した地元青年マルゴ ンダの名前が市内目抜き通りの道路名になっている。 現在デポッ市のマルゴンダ通りは大商業地区を貫通する目抜き通りになっている。それは 1989年に拡張工事が行われたあとの姿であり、独立闘争期の地元英雄の名前が付けら れる前、その通りはチリウン川に設けられた水門に由来するピントゥアイル通りという名 前になっていた。 国立公文書館歴史学者のモナ・ロハンダ氏によれば、オランダ時代末期のデポッはバタヴ ィアで働くオランダ人がたくさん住んでいるベッドタウンになっていたそうだ。グドラン デポッの本当の標的にされたのはオランダ系プラナカンのひとびとであり、シャステレイ ンの奴隷の子孫が主目標にされたのではなかったはずだとかの女は語っている。つまり、 ブランダデポッというのはデポッに住んでいるオランダ人を意味していたというのがかの 女の主張のようだ。 VOC時代の前半はデポッ地区がバタヴィアに所属していたが、バイテンゾルフの行政区 画ができるとバイテンゾルフの管区に移された。 VOC以来、オランダ植民地時代を通して行われていた私有地制度をインドネシア共和国 が容認できないのは明らかだった。いくら遺言書があろうが権利証書があろうが、独立共 和国にはそのようなものを否定し粉砕する意志があった。 種々雑多の人種種族言語文化の人間が混在する国民をひとつにまとめるためには、排他性 を持つ人間集団が国民の中に存在してはならないのである。インドネシア国民であればだ れもが、自分を取り巻く多様性の中で秩序ある社会生活を送らなければならないのだ。建 国の父たちは単に精神目標としてのスローガンを打ち上げただけで終わらせるようなこと をしなかった。実質的な行政の中でそれを実現させるための手を打つことも忘れなかった のである。 結局インドネシア共和国が成長していく中で、デポッも北ジャカルタのトゥグ地区も似た ような運命をたどることになったと言えるだろう。[ 続く ]