「大郵便道路(37)」(2025年02月06日)

新生インドネシア共和国政府はデポッ私有地行政府と協議を行い、オランダ政庁から与え
られていたすべての権利を放棄させた。1952年8月4日にデポックの自治私有地が公
式に廃止されて共和国領土となり、デポッ私有地の地所のうちの水田・畑・原野・森林な
どが共和国の国有地にされた。国が買い上げたと書いている記事も見られる。個人の家屋
敷地と教会・牧師館・学校・墓地・運動グラウンドなどの公共ファシリティだけが従来か
らのデポッ社会に残されて、他は共和国の所有権の中に編入されたのである。


独立インドネシア共和国の国内行政が開始されたとき、デポッはボゴール県パルン地方の
ウェダナ行政区になった。1976年に住宅建設公社による住宅地開発が始まり、それに
続いてインドネシア大学キャンパスがデポッの北部に移転された。

しかし、急増するジャカルタ住民人口を吸収するためのベッドタウンとしてデポッの開発
が行われたにもかかわらず、ジャカルタに住み着いたひとびとはあまり興味を示さなかっ
た。まだまだ田舎だったデポッの社会サービスがジャカルタの便利さに劣っており、また
交通も未発達だったために、ジャカルタ都民の気を引くには難があった。

1981年にデポッはウェダナ行政区から行政市にステータスが変更され、1982年か
ら行政市に移行した。その年のデポッ住民人口は24万人だ。デポッの都市化の進展に伴
って当初構想されていたジャカルタのベッドタウンとしての人気が高まり、デポッの高級
住宅地区にはジャカルタへ通勤する高所得層やプロフェッショナル勤労者層が続々と居住
するようになった。1999年にデポッ行政市は最終的に名実揃った市に格上げされた。
1999年のデポッ住民人口は120万人に達している。

誘致されたインドネシア大学が広大な敷地にキャンパスを構え、敷地内には自然林や広い
池があり、わたしの一家はしばしばそこへピクニックに行ったものだ。インドネシアの国
立大学の多くは広大な敷地の中に建てられていて、一般市民が自由に出入りしている姿を
よく見かける。

とはいえ、デポッの街全体を学園都市と呼ぶのは難しい気がする。キャンパスは中心部か
ら離れた北の一部を占めているだけであり、町の中心部へ行けば現代的な商業都市を感じ
るばかりだ。


プラムディヤ・アナンタ・トウルは、ダンデルスの大郵便道路がジャティヌガラからまっ
すぐ南下しないで少し西に湾曲し、ビダラチナ〜パンチョランを経てパサルミングラヤ通
りにつながったように語っている。デポッに向かう場合は確かにそれが妥当なルートだ。

しかしダンデルスがジャティヌガラからバイテンゾルフを目指す場合、まっすぐ南下して
チャワン〜チリリタン〜クラマッジャティを抜け、チブブル〜チマンギス〜チビノンとい
うルートを採るほうが明らかに効率が良い。

この考察は一度、拙著「南往き街道」の中にも書いたことがある。実は、インドネシア人
自身の間でもこの問題がいまだに解けない謎になっている。

大郵便道路が経由する町の中にデポッがあるということだけが動かせない事実であり、ジ
ャティヌガラ〜デポッ〜ボゴールの道程はいくつかの候補を想定することができる。おま
けにデポッの自治行政府建物はレンテンアグンからバイテンゾルフ宮殿の正面に達する街
道にほんの百メートルほどの近距離でつながっているのだ。

一方ダンデルスの構想では、大郵便道路はバイテンゾルフ宮殿を終点にしているのでなく、
ボゴールからチアウィを経てプンチャッの山越えをしなければならない。それを折衷した
別の説では、パサルミング〜レンテンアグン〜デポッ〜ボジョングデ〜チビノンというル
ートが主張されていて、チアウィへ行きやすくなっている。


イ_ア語ウィキペディアのJalan Raya Bogorの項目はこのボゴール街道を大郵便道路とオ
ーバーラップさせて物語っている。さらに、パサルミング通りからマルゴンダ通りの線を
昔のひとはボゴール街道の一部だと語っていたということが記されており、ボゴール街道
建設工事の際にその部分が同時に建設された可能性を推測させてくれる。

ボゴール街道が大郵便道路として使われたのであれば、ボゴール街道の支線として作られ
たパサルミング〜レンテンアグン〜デポッが大郵便道路の支線として使われていたとして
もおかしくはない気がする。[ 続く ]