「大郵便道路(38)」(2025年02月07日)

< バイテンゾルフ Buitenzorg >
バタヴィアから59キロ南に下るとバイテンゾルフがある。ダンデルスがバタヴィアに到
着してバタヴィアの状況を把握したあと、かれはバイテンゾルフへ行こうとした。すると
部下が12頭立ての馬車が必要だと言ったので、ダンデルスは馬を13頭馬車に繋げと命
じたそうだ。

そのころ、バタヴィア〜バイテンゾルフ間の往来で人の休憩や馬の交換のためにチマンギ
スに中継所が設けられていた。つまりダンデルスがジャワ島に来る前からバタヴィア〜バ
イテンゾルフ間の往来は南往き街道、すなわち現在のボゴール街道がメインに使われてい
たことがそこから推察できるのである。

おまけにチリリタン、チブブル、チマンギス、チビノンなどボゴール街道沿いのたくさん
の地区が私有地にされ、オランダ人がlandhuisと呼ぶ巨大な別荘が建てられてバタヴィア
城市内に住む高官や富裕者たちが週末には家族連れでそれらの別荘に保養に来ていた。現
在のボゴール街道はもう過去三百年近くの間、通行頻度の高いよく使われる道路になって
いたのではないだろうか。

しかし植民地時代の後半ごろには、週末の保養地はバイテンゾルフに集中するようになっ
ていた。共和国時代の初期も依然としてボゴールが花形で、プンチャッ峠はまだはしりの
時期であり、プンチャッに焦点が移るのは60年代から70年代にかけての時期だったよ
うだ。70年代には大晦日を恋人とプンチャッで過ごすのが若者たちの間で流行していた。

プンチャッにはインドネシア人富裕者層の持つ豪華なヴィラが街道からはずれた奥のあた
りにバラバラと建てられていて、ヴィラの管理者は旅行者が金さえ払えばすぐに貸したか
ら、一種の連れ込み宿として利用するインドネシア人も少なくなかったらしい。


バタヴィアの街が城壁の中から今のジャヤカルタ通りやガジャマダ=ハヤムルッ通りまで
広がったVOC時代のチマンギスやチビノンはまだまだ大自然あふれる郊外の魅力をたっ
ぷり持っていたのだろうが、バタヴィアの首都機能がヴェルテフレーデンに移されて街が
メンテン地区南部のチリウン川まで広がった植民地時代末期には、バタヴィア住民の人口
と種類が大幅に変化していた。VOC時代のような、ひとつの組織に関わる人間が住民の
大部分を占めていたのと違い、植民地時代末期ははるかに多種多様なひとびとがバタヴィ
アに住むヨーロッパ系庶民になっていた。

共和国独立後はプリブミ上流富裕層がヨーロッパ系庶民の真似をするようになり、週末を
ボゴールで過ごそうとするプリブミが増加した。ジャカルタ〜ボゴール間の交通は電車も
あったが、ボゴール街道を小型乗合バスOpletが走った。ボゴール街道は四輪自動車にと
って十分にすいている時代だったことから、ボゴール〜ジャカルタ間が一時間もかからな
かったと書いている記事もある。

ジャカルタからボゴールへ遊びに行くひとびとは、一度チサラッでオプレッを降りてタペ
ウリを賞味し、ボゴールからの帰りにチビノンに寄って果実を買って、それを土産にジャ
カルタに戻った。果実売りはたいてい華人だったそうだ。

ボゴールへ行って、川で水浴する人たちもいた。水は澄んでいて冷たく、とても気持ちよ
かったという話だ。今では地元民すら川水でマンディするひとはいない。そして植物園で
ピクニックを楽しんでから、周辺の道路で店を張っているトゲゴレンやアシナンボゴール
を堪能した。ボゴールへ行って食べるそれらの名物は味が違うとひとびとは信じていた。
[ 続く ]