「パチャルメラ(4)」(2025年02月07日)

タン・マラカは、失敗した1926〜1927年の共産党内過激派による独断的蜂起のた
めに逃亡者暮らしを余儀なくされた。この小説が世に出たとき、世間がパチャルメライン
ドネシアとタン・マラカをオーバーラップさせたことから、タン・マラカという人物の知
名度が急上昇した。

この小説は大半の部数がスマトラで消費されたため、実際のタン・マラカは上で述べたよ
うな超能力を本当に持っているという信念がスマトラ人の中に広がった。そのために19
40年に出されたTan Malaka di Medan、Moetiara Berloempoer、Tiga Kali Patjar Merah 
Datang Membela、Patjar Merah Kembali ke Tanah Airなど、他の著作家が書いたタン・
マラカに関する著述の中にもそのような内容が書かれているのをしばしば目にする。

それどころか、超能力を持つタン・マラカの出現を期待する文がインドネシア独立闘争の
初期にたくさん世に表れたことをプゼは指摘している。


この小説に登場する、パチャルメラにからんでくる同志たちの名前は、インドネシア共産
党指導層の名をもじったものだ。パウル・ムソッテはムソ、イワン・アルミンスキーはア
リミン、セモウノフはスマウン、ダルスノフはダルソノ、そしてPARI(インドネシア共和
国党)をタン・マラカと一緒に立ち上げたジャマルディン・タミンがジャルミン、スバカ
ッがスー・ベンキアッになぞられている。

この小説の著者マトゥ・モナは、プワルタデリ編集長のアディヌゴロ宛に届いたタン・マ
ラカの手紙の内容を小説の素材に使った、とプゼに語っている。タン・マラカがアディヌ
ゴロに送った四〜五通の手紙を編集員だったマトゥ・モナも読んだそうだ。タン・マラカ
はその手紙に、逃亡生活の様子とインドネシア独立に関する自分の考えを述べていた。

マトゥ・モナはパチャルメラという主人公の名前を、バロネス・オルツィのベストセラー
作品The Scarlet Pimpernel(日本語タイトルは紅ハコベ)から取った。フランス革命時
に活躍したヒーローの異名だ。

この小説をバライプスタカが取り上げて、ムラユ語翻訳版を1928年に二分冊で出版し
た。そのタイトルにパチャルメラの語が浮かんでいる。いわく「Beloet Kena Ranjau - 
Patjar Merah Terjerat」

この小説はスカーレットピンパーネル並みの人気をオランダ東インドで博した。単行本で
3千部が売れたそうだから、あの時代としては大ヒット作品だったにちがいあるまい。続
編の要請が諸方面から起こり、1938年にRol Patjar Merah csという作品が出されて
いる。rolというオランダ語は英語のroleと同じだ。

さらに1940年に第三作が出されたはずだとハリー・プゼは語っているものの、古書籍
蒐集界でも古書店でも見つかっていない。


マトゥ・モナというのはペンネームであり、著者は本名をハスブラ・パリンドゥリと言う。
かれは1910年にデリのクサワンで生まれた。そのころのクサワンはクダイパンジャン
という名の漁村であり、その村では店構えをしている家屋がすべからくセメントと木板が
半々に使われる構造になっていたそうだ。

かれが著述の世界に入ったのは、父親ハジ ムハンマッ・タヒルの影響だった。父親も作
家であり、著書Syair Puteri Maryam Zanariは世間に知られた書物だった。父親はこの息
子に著作活動とジャーナリズムへの関りを勧めて指導した。1931年1月1日、かれの
ジャーナリストの履歴がプワルタデリの記者としてスタートした。そのとき、ハスブラ青
年はアディヌゴロの率いるプワルタデリにとって未知の人間でなかったのだ。かれはずっ
と前から短編や連載ものの小説あるいは詩作をプワルタデリに寄稿していた。

プワルタデリはその新人記者に月額100フルデンを支払ったが、それが300フルデン
になり、最後には500フルデンになった。本人は、ホリデーに香港へ遊びに行ける金額
だと語っていたそうだ。[ 続く ]