「パチャルメラ(終)」(2025年02月10日)

インドネシアで独立闘争時代が始まるまで、マトゥ・モナの名前はトップクラスの流行作
家として世間の注目を浴びており、新作の宣伝が新聞に出ると書店でそれを尋ねる客が続
出したという話が語られている。特にメダンでそれが激しかった。そんなマトゥ・モナの
代表作がパチャルメラインドネシアだったのである。

KITLVのハリー・プゼとヤップ・エルケレンスはマトゥ・モナの全作品をリストアップし
ようとしてあちこちの図書館を調査し、1933年から1978年までの期間に単行本と
新聞の連載ものの形式で世に出たものを28タイトル見つけた。新聞は日刊紙および月刊
誌や半月刊誌だった。その大半はメダンで出されたもので、少数がジャカルタで出ていた。
Riwajat Penghidupan dan Perdjuangan M Husni Thamrin, Zaman Gemilang, Tjintjin 
Permata dari Cambodja, Arek Soerobojo, Detektief Rindu (Tjintjin Berlian dari 
Golconda)などといったタイトルがそのリストに書かれている。


弾圧志向レジーム下の売れっ子作家のご他聞にもれず、マトゥ・モナも国家機構が目の敵
にした人間のひとりだった。かれの日常生活には警察や軍隊の影がまだら模様になって入
り混じった。植民地時代ばかりか、共和国が独立宣言したあとでさえ、その様相にはたい
した変化が起こらなかった。

1930年代のメダンは周辺を西洋大規模資本の農園に取り囲まれていた。農園の外周に
はたいていチークの樹が植えられ、農園の境界線を示すとともに農園内を保護する役割を
果たしていた。あるときかれはひとりの貧しい老婆が枯れ落ちたチークの小枝を拾い集め
ている姿を目にした。

かれはプワルタデリに「銀の樹の黄金の小枝」と題する作品を掲載し、繁栄する農園経済
とプリブミの貧困生活を対照させて植民地経済政策を風刺した。その結果、植民地警察が
かれを裁判所に告訴し、マトゥ・モナは一週間の入獄刑を体験させられた。

オランダ東インドの歴史が終末に近付いたころ、かれの出している雑誌Penyedarにかれは
連載小説を書いていた。小説の原作はバンジャルマシンのかれの助手が書いたものだが、
かれはそれに手を加えて雑誌に掲載した。そしてバンジャルマシンの法廷で裁判を受け、
2年間の入獄判決が下されて、かれはバンドンのスカミスキン監獄でその2年間を過ごし
た。


行政批判だけではない。独立革命の時期に入ると、社会の治安は行政や警察よりも治安部
隊に握られることのほうが多かった。そんな激動期には、治安の権限を持つ人間の即断で
事がなされるケースが多発し、往々にして私刑が発生した。

独立革命が始まると、マトゥ・モナは自分の日刊紙Perjuangan Rakyatを発行した。その
記事のひとつが、地元治安部隊司令官の行為を私刑として批判していると解釈されたため
に、かれは司令部に引っ立てられてあわやゴロッ(鉈)の露にされる寸前という事態を体
験している。

1950年にインドネシアの完全独立が達成されると、かれはバンダアチェに住んで日刊
紙Tegasを発行した。この新聞はマシュミ党寄りの姿勢を取っていると見られた。195
3年になって地元の軍司令部が、ダルルイスラムと関係を持っているという理由で発行禁
止処分を与えた。

その結果かれはスマトラを去り、ジャワ島に移ってセレクタグループの編集者を長期にわ
たって務めた。セレクタグループは週刊誌と半月刊誌を出していた雑誌発行者であり、1
959年に事業を開始し、1986年に発行を停止した。マトゥ・モナは1987年7月
8日に逝去した。[ 完 ]