「大郵便道路(39)」(2025年02月10日) オプレッは車両の運転席助手席と後部を壁で切り離し、後部に10人くらいが座れる形に 改造した乗合バスで、最後尾が乗客用乗降口になっているのが普通だった。発端は193 0年代にジャカルタの一部エリアからボゴール街道にかけての地域で使われ始めたそうだ。 1950年代になって独立インドネシア共和国が運行ルートの許可を広げたためにジャカ ルタ一円に広がった。 最初はイギリス製モリストラベラーの車体が使われ、それからオースティンやシボレーも 使われるようになった。Opletという名前からOpelのブランド名が連想しやすいためにそ んな語源説を語るひともあるのだが、イ_ア語ウィキペディアの解説からはオペルの車体 が使われたのかどうかはよく分からない。 おもしろいことに、乗合車両用に改造された車体後部は木でできていた。わたし自身も7 0年代にプンチャッ街道でオプレッの後部に乗ったことが一度だけある。そのとき車内は 20人近く入って満員になっており、天井に手を当てて自分の身体を支えていたようなお ぼろな記憶が残っている。その時代にジャカルタで、わたしは車内の内装が木でできてい るベンツを運転したことも一度だけある。車を走らせるのがとても重かった。 ボゴールへ保養に行くひとびとは植物園を訪れるのが普通だった。70年代にわたしがは じめてボゴール植物園を訪れたときは、入り口で入場券を買い、つり橋を渡って中に入っ たような気がするのだが、今ひとつ記憶があいまいだ。入場券売場周辺は土産物売りが大 勢いて、路上に商品を並べて商っている販売者もいれば、商品を手に持って徘徊し、やっ てきたひとにアプローチしている販売者もいた。まるでパサルのような雰囲気を感じてわ たしは驚いた。そこでの特産品はクナリの実で作った指輪だそうだ。クナリの樹は植物園 の中よりも町中にはるかにたくさんあって、この土産物は植物園から分けてもらわなくて もいくらでも作ることができる。kenariという樹種は英語のcanariumに対応している。 バイテンゾルフが一時期世界中で有名になったのは、そのとき植物園のコレクションが世 界でもっとも豊富だったからだ。そのためにバイテンゾルフ植物園が世界中の植物学者や 研究者にとってのメッカになり、当然のことながら、外国人観光客も大勢やってきた。 この植物園が生まれたのは、ジャワ島がイギリスに占領されていた時代だ。それまでそこ の場所には宮殿に住むひとびとの慰安のための植物園や動物園、そして食用に使う野菜園 などが設けられていた。英国東インド会社ジャワ副総督となったトーマス・スタンフォー ド・ラフルズがその庭園を植物園にするよう命じ、植物学専門家のウィリアム・ケントが ロンドンのキューガーデンに似せて整備したのがその発端だ。 イギリスがジャワ島を新生オランダ王国に返還してから、オランダ東インド政庁は農業芸 術科学局長の職に、プロイセンからオランダに移住したカスパー・ギオーグ・カール・レ インワルツ教授を抜擢したことで、バイテンゾルフ植物園の運営がかれの業務のひとつに なった。 レインワルツ教授は植物園としての整備を、最初ラフルズに命じられてそれを手掛けたイ ギリス人ウイリアム・ケントと、ロンドンのキューガーデンのキュレータだったジェーム ズ・フーパーの助力を得て、実行した。植物園に整備されたバイテンゾルフ宮殿付属の庭 園は1817年5月18日にファン デル カペレン総督が公式に’s Lands Plantentuin te Buitenzorgと名付けて開所した。そのとき、その庭園がバイテンゾルフ・ナショナル ボタニカルガーデンになったのである。 しかし名称はそう謳われたものの、その植物園は依然としてバイテンゾルフ宮殿付属とい う立場に置かれていた。レインワルツ教授は1822年までバイテンゾルフ植物園の所長 を務め、その間にハーバリウムコレクションの収集を行った。それから所長が何代も交代 したあとの1868年5月30日にやっと、この植物園はバイテンゾルフ宮殿の所属から 離れて、ひとつの国立研究機関として独立したのである。[ 続く ]