「大郵便道路(40)」(2025年02月11日)

1830年にヨハネス・エリアス・テイスマンがナショナルボタニカルガーデンの所長に
なった。テイスマンは植物園のコレクションを増やすことに尽力し、アンボンからクナリ
の苗を取り寄せて植物園内に植えた。かれはさらにクナリ樹をバイテンゾルフの街中の道
路に植えて並木道を作った。

今のボゴール市内のAヤニ通り、プムダ通り、ラユンサリ通り、カプテンムスリハッ通り、
ヴェテラン通りにクナリの並木が影を落としている。またボゴール宮殿裏の植物園大門に
通じるクナリ通りもその名前通りになっている。

また他の道路にもダマル樹やマホガニ樹の並木が作られていて、街中の大通りを深い緑陰
が覆っている姿はさすがにバイテンゾルフの名に恥じないものがある。結実期にたくさん
落ちるクナリの実は市民に土産物製作の材料をもたらし、ボゴール特産の土産物としてク
ナリの実のキーホルダーや指輪などに加工されていた。硬い殻の中の種はウォルナッツと
呼ばれて食用にされている。シロップをかけたかき氷の友に欠かせなかったと昔のボゴー
ル住民は語っている。


そのAヤニ通りはオランダ時代にBataviasche Wegと呼ばれていた。独立後はそれを直訳
してJalan Jakartaと呼ばれたが、1970年代にG30S事件の悲劇の将軍の名前に改
名された。この道路はおよそ1.8キロの距離を直線でボゴール街道目指して北東に進み、
ジャンブドゥア地区で東に向きを変えてからほぼ4百メートルでボゴール街道につながる
のである。そしてこの道路はダンデルスが作った道だとされているのだ。

メステルコルネリス〜バイテンゾルフ間を結ぶ大郵便道路はボゴール街道であり、デポッ
と同じようにバイテンゾルフも分岐路でつながれたような印象がそこに漂っていることは
否定できないだろう。


視点の位置をボゴール宮殿に移し替えるなら、宮殿表玄関からスディルマン通りが真直ぐ
北上し、1.8キロ先のAヤニ通りとの分岐点に達する。その分岐点は元々三角点が置か
れた場所であり、白く塗られた大型の石柱が建てられたためにヴィッテパアルと呼ばれて
いた。今ヴィッテパアルは噴水になっている。

道路はそこからプムダ通りと名を変えてまっすぐ北上していくが、そのうちに地形に合わ
せて曲がりくねるようになり、スカラジャ〜ボジョングデを経由してデポッに達する。つ
まりデポッから南下してボゴール宮殿の玄関口正面に達する道があるということなのだ。
果たして、ダンデルスの郵便馬車はその道を定常路にしていたのだろうか?

ボゴール街道を通った場合、馬車はバタヴィアシェヴェフに入ってバイテンゾルフ宮殿に
達し、そこからは宮殿敷地の周囲を巡っている道路のどこかを通ってボゴール街道に戻る
ことができた。ボゴール街道は宮殿敷地の東側を通ってチアウィに向かっているのだ。


植民地時代に、ヴィッテパアル近辺のバタヴィアシェヴェフの東側は100Haもの広大な
ゴム園になっており、ゴム園と道路の境界を示すためにクナリの並木が植えられた。ゴム
園から得られるゴムを原料に使う工場をグッドイヤーがプムダ通りの西側に建てたのは1
935年のことだった。グッドイヤーの工場は今でも稼働しているが、原料のゴムはもう
地元からの供給がなくなり、国内他地方や国外から送られてくるものが使われている。

そのうちにゴム園の一部の土地を使って馬場が作られ、競馬場ができた。ヴィッテパアル
三角エリアから比較的近いAヤニ通り西側にサピン小路がある。そこに乗馬のための鞍や
蹄鉄を作る職人が店を開いた。その職人の名前が現在の小路名になっているのだ。サピン
小路の住民はサピンの子孫だそうだ。

バイテンゾルフ宮殿から近く、しかも大通りでつながっているAヤニ通り一帯は、植民地
時代にオランダ人の居住地区になっていた。今でも植民地時代を顕著に示すデザインの建
物が通りの東側と西側にたくさん残されている。通りの東側は通りに面してオランダ人の
住宅が並び、その裏手にプリブミの住居が並び、家並みが途切れるあたりからヤシ畑がチ
リウン川岸近くまで続いていた。今そのエリアは川岸まで住宅がぎっしり埋め尽くしてい
る。[ 続く ]