「大郵便道路(41)」(2025年02月12日) スカルノは52歳のときに娶った第二妻のハルティ二をボゴール宮殿に住まわせた。19 54年、ハルティ二の居所として宮殿内にパヴィリオンアマルタが建てられている。それ とは別にスカルノは1963年に、ヴィッテパアルからAヤニ通りを250メートルほど 北上した東側の1千2百平米の土地にスダルソノがデザインした16の寝室を擁する邸宅 を建てて妻にプレゼントした。この邸宅をスカルノはRumah Srihana-Srihaniと名付けた。 ハニがハルティ二を短縮したものであるのを推察するのは容易だが、スリハナは誰なのか? それはスカルノ自身のことだったそうだ。 スリハナスリハニの家からAヤニ通りを7百メートルほど北に上がった道路西側にボゴー ルイミグレーション事務所がある。この建物はインドネシア共和国第二代副大統領になっ たヨグヤカルタスルタンのハムンクブウォノ9世が1982年に建てたものであり、これ はスルタンが5人目で最後の妻になったノルマ・ムサと一緒に過ごすためのものだったと 言われている。1.6ヘクタールの敷地面積を持つこの御殿はIstana Swarna Bhumiある いはKedhaton Shwarna Bhumiと命名された。ノルマがスマトラのバンカ島生まれだったこ とに因んだ命名だったらしい。 ノルマ・ムサはスカルノ大統領の秘書をしていたときに副大統領に見染められたようだ。 結婚してからノルマはジャワ人王族としてカンジュン ラデン アユの称号を名乗り、公式 名がKRAy Nindyo Kironoになった。スルタンが没したあと、カンジュン ラデン アユ ニ ンディヨ・キロノはその宮殿を去り、そこへ戻ることはなかった。 総督閣下の宮殿も有名だ。その宮殿は18世紀半ばにファン イムホフ第27代総督が別 荘として建てたものだが、後に東インド総督の公邸にされて歴代の総督が涼しいバイテン ゾルフに住んで執務し、バタヴィアには東インド参議会会議のために週一度やってくるだ けになった。首都はバタヴィアであり、行政府もバタヴィアにあるというのに、行政府の トップは59キロ離れた場所にいるのである。もちろん総督はバイテンゾルフ宮殿で執務 するのだから、国家官房もバイテンゾルフに移り、また行政府各部門も出先機関をバイテ ンゾルフの宮殿周辺に置いて上層部がバイテンゾルフ詣でをすることになる。 国家官房館はバイテンゾルフ宮殿のすぐ近くに建てられた。現在ボゴール宮殿正面玄関と 道路をはさんで真向かいにあるレギナパチス学園の西側で、ホテルサラッの東側のブロッ クの中央あたりに位置している建物がそれだ。 現在西ジャワ州地方開発調整庁が使っているその建物は1821年に建てられ、1834 年の大地震のあと再建されたもので、最初は国家官房がそこに入っていたという話と、バ イテンゾルフ最高行政官である副レシデンが最初から使っていたという話のふたつのバー ジョンがある。 オランダ植民地時代が始まったとき、バイテンゾルフはバタヴィアレシデン統治区に所属 する下部地区afdeelingであり、副レシデンが統治する地区だった。1832年にレシデ ン統治区に格上げされて、その副レシデン官邸はレシデン官邸になったものの、1867 年にまた副レシデン統治区に戻されている。 日本軍政期にはボゴール州長官の官邸として使われた。ボゴール宮殿には地区の軍司令部 が置かれたので、行政官が宮殿を使うことができなかったのだ。インドネシア共和国にな ってからは西ジャワ州知事補佐官事務所として使われ、1976年に州地方開発調整庁の オフィスになった。 大型の建物は一階建てが普通だったその時代に、この建物は二階建てで造られた。壁の厚 みは50センチもある。その時期の東インド植民地で一般的だった建築様式であるネオク ラシックスタイルが用いられて、正面と両サイドに大きい円柱が使われ、窓は弧形になっ ている。 建物一階はオフィスとして使われ、二階は居住エリアとして寝室がたくさん並んだ。二階 の部屋は客が宿泊するためにたくさん用意されたものらしく、業務で訪れた客を泊めるた めに使用されたようだ。客室のベランダからは総督宮殿の広い庭がよく見渡せた。泊まっ た客人たちはベランダでコーヒーや紅茶を飲みながら、緑滴る風景を愉しんだにちがいあ るまい。[ 続く ]