「ブタウィ語の対人呼称(後)」(2025年02月12日) ブタウィ文化で使われているそれらの対人呼称は中華文化に類似していると言われていて、 ブタウィ人が中華文化を貪欲に摂取したことを感じさせる。ブタウィの華人プラナカンの 場合はどうなっているだろうか? ブタウィの華人プラナカンは伴侶の祖父をKongcu、祖母をMak Pocoと呼んでいる。自分の 祖父はEngkong、自分の祖母はMakだ。 自分の父親はPapah、母親はMamahあるいはMemeh。父方のおじはEncek、おばはEncim、母 方のおじはEngku、おばはI'ie。 本人の姉はEnci、兄はEngkohあるいはKokoh。 姉の夫はCihu、兄の妻はMuehu、アディッイパルは男も女もEnsoh。 華人プラナカンであれば、自分を示す一人称代名詞は相手が誰であれgua、二人称も相手 が誰であれlu。複数の場合は一人称がkita orang、二人称はlu orang。 ブタウィ人が文化的に憧れを抱いているブタウィのアラブ系プラナカンの対人呼称はこう なっている。祖父はNjitあるいはJid、祖母はJideまたはJiddah。父親はAba、母親はUmi。 おじはAmi、おばはHale。 しかしおじ・おばについては、オランダ時代の名残とも言えるOomとTanteあるいはPaman とBibiの組み合わせを使う者がブタウィ人にも華人系やアラブ系プラナカンにもたくさん いる。 アラブ語の一人称代名詞ana、二人称代名詞antaはあまり使われず、guaとluのほうが好ま れている。ところがアラブ人プラナカンも、ブタウィ文化の慣習である自分の名前を一人 称として使うことをよく行っているのだ。つまりこの部分はアラブ系もブタウィ文化に従 っていると言うことができるだろう。アラブ本来の文化にはそのような習慣がまったくな いと言うのに。 アラブ系プラナカンと中華系プラナカンが日常生活の中で接触することもまったく珍しい ことでない。種族や文化が人間の行動範囲を狭めるようなことは、インドネシアでは国民 の規範に反することになっていて、日常社会行動で種族・文化・宗教などの違いを理由に して交際しない人間は批判の対象にされる。 そんな状況下にアラブ系と中華系が対話するとき、実に珍妙な現象が頻繁に発生するのだ そうだ。それは何かと言うと、アラブ系プラナカンはgue-luを使い、中華系プラナカンは ane-enteを人称代名詞に使うのである。 かれらの祖先の文化では基本的に、その人称代名詞の使い方は年齢制限を受けないもので あるにもかかわらず、それらの人称代名詞をブタウィ人は長幼の序および親疎という価値 観の中に引きずり込んだ。これはつまり語彙が持つ語感の話だ。 ane-enteは篤信ムスリムが使うのにふさわしい言葉であり、gue-luは荒っぽくて粗野な印 象を示すものの、親しみがにじみ出るような人間関係にふわさしい言葉として位置付けら れたのである。その結果、ane-enteは男性同士で使われる傾向を強く帯びることになった。 女はane-enteを使って対話することがあまりなく、本人の名前を一人称・二人称の代名詞 に使うのが普通だ。 一方、gue-luを使うのは粗野で下品な印象が強いために、篤信ムスリムは年長者や公的な 場でグエ・ルーを使うような真似をしない。互いにふざけ合って平気な遊び仲間との間で のみ、それが使われるのである。[ 完 ]