「宣言成就の遠い道(1)」(2025年02月13日)

ポツダム宣言を1945年8月14日に受諾した大日本帝国政府は翌8月15日にその事
実を国民に発表した。連合国は8月16日に日本がインドネシアと呼んでいる旧オランダ
東インドの現状凍結を命じた。大日本帝国政府はすぐにそれを現地に連絡したという話に
なっているのだが、その現地とはいったいどこの誰だったのか?

南方軍総司令部があるダラトにまず届けられ、海軍はそこから直接マカッサルに伝えられ
たのではないかと思われるが、陸軍はインドネシア駐留軍の本部があるシンガポールに先
に連絡が行き、そしてシンガポールからはじめて現地であるブキッティンギとジャカルタ
に連絡が届けられるのが筋だったように思われる。通信連絡が最終現地に届いたのは何月
何日の何時のことだったのだろうか?


インドネシアの政治上の現状凍結命令は在インドネシア駐留日本軍の間で16日13時に
発効したというインドネシア語記事の叙述があるので、その連絡はスムースに実現したよ
うだ。しかしその日の夜にインドネシアの要人たちが行った独立宣言起草の集まりのため
にジャカルタ海軍武官府を場所として提供した前田精海軍少将、前田少将の部下である日
本人たち、あるいは証人として出席した軍政監部三好陸軍大佐らが現状凍結命令を知らな
かったはずがあるまい。

独立宣言発表式典の場所としてガンビル広場のジャカルタ市庁舎前を主張するひとびとが
あったが、早朝から日本陸軍一個大隊がやってきて防衛配置に就いたためにそこで行うの
は不可能になった。結局スカルノの家の表で独立宣言発表式典が行われ、それを妨げる日
本側の動きは起こらず、インドネシア共和国の歴史の第一歩が踏み出された。


式典が終わった直後にふたりの日本人高官がスカルノに面会を求め、出てきたスカルノを
拉致しようとしたものの、周りにいるインドネシア人が竹槍や刃物を手にしてにじり寄っ
て来たために、そのふたりは慌てて逃走したという話がある。

インドネシア人が勝手に行う独立宣言を、敗軍になった日本軍が阻止するのは無理無謀な
ことだという考えが日本軍ジャワ島最高指揮官の脳裏にあったのかもしれない。つい数日
前まで日本軍がインドネシアの独立を承認し保護するという態勢にあったのだから、連合
国の一片の命令に従って手のひらを返すような武力行動を起こしたなら、インドネシア人
の日本人に対する憎しみは倍加するだろう。

そうなれば、インドネシアの全土に散らばっている日本人の安全は保証されなくなる。軍
人は2万5千人いたと言われており、そのほかにも軍属や民間人が男女含めてかなりの数
にのぼっていた。3万人くらいはいると見られるそれらの日本人を安全に日本に戻すこと
が、軍ジャワ島最高指揮官の責任感の中央に鎮座していたことは十分に想像できる。言う
は易く行うに難い現状凍結命令を尊重する姿勢を示しつつも、いかに日本人の安全という
最重要使命を全うするか、というのがその時の政治情勢の中に発生した命題だったように
思われるのである。[ 続く ]