「宣言成就の遠い道(2)」(2025年02月14日)

独立宣言文に謳われた「主権移譲その他に関することがらは最短の期間に綿密な方法で実
施される」という言葉は何を意味していたのだろうか?主権移譲してくれるはずのダイニ
ッポンは戦争に勝った者たちから主権移譲を禁じられたのである。宣言文が起草された8
月16日の夜から17日の夜明け前までの時間に、その情勢の変化が明瞭に意識できてい
た建国の父たちはどのくらいいたのだろうか?

その場における過激派青年層たちの言動からは「日本が与える独立を受ける気はない」と
いうメッセージが強く感じられ、「われわれがこれから行う独立は日本が与えるものでは
ないのだ」という情勢の変化が十分に理解されていない雰囲気が感じられる。

少なくとも、16日の晩にレンガスデンクロッからジャカルタに戻ったスカルノとハッタ
は、その深夜に行われた軍政監部総務部長西村少将との話し合いで情勢の変化についての
説明を受け、インドネシア人の独立を許してはならない義務を日本軍が負わされたことが
その場で言明されていることから、多数のひとびとから助言を受けながらふたりが作った
その宣言文はもちろん最新情勢を踏まえたものになっていたはずだ。

それからほどなくしてインドネシア人は主権奪取の動きを開始し、それまで国内行政や生
活インフラ事業体の経営責任を握っていた日本人行政官、あるいは国内治安を握っていた
日本軍との間に騒擾が広がって行った。日本軍との間で小中規模の交戦もいくつか発生し
ている。はたしてそれらのできごとと「最短の期間に綿密な方法で」という言葉で意図さ
れた内容は一致していたのだろうか?


インドネシア共和国独立を宣言したインドネシア人は、独立準備委員会によって正副大統
領に指名されたスカルノとハッタが作った内閣による国家行政を開始した。独立準備委員
会は全国諸地方の代表者が集まって構成されたものだが、これは独立国家を作るための準
備委員会であり、日本軍占領下にあるインドネシアの各州は軍政監部の下部組織になって
いたのだから、各州が独立インドネシア共和国を構成する下部行政区画になるというステ
ップが出現しなければならない。軍政監部が各州の地方行政機構をインドネシア共和国に
引き渡すことをしなくなったのは上述の通りなのだ。

そこでは、各地方首長がインドネシア共和国に帰属するという宣言を発表して共和国の地
方行政区画になるステップが踏まれた。州長官が日本人であれば、州としての帰属宣言は
出せない。そんなケースではたいてい過激派青年層が日本人州長官を追い出し、空席にな
った州長官席にプリブミの副州長官を座らせて帰属宣言を行わせた。

そもそも、独立宣言というできごと自体が広大なインドネシア領土のすみずみまで伝わる
のに時間がかかった。日本軍政は戦時中からラジオ報道を厳しくコントロールしていたか
ら、インドネシア人がインドネシアのために行った独立宣言の事実を報道させるはずがな
かった。ましてや連合国に冷水を浴びせるような内容なのだから、連合国からの凍結命令
に違反する内容のニュースが電波に乗せられては困ることになる。しかし日本人がいくら
禁止しても、現実にジャカルタラジオ放送局から独立宣言のニュースが過激派青年たちの
努力で放送されてしまった。各地の状況はだいたい下のようなものだったそうだ。

スマトラでは宣言日から一週間くらい、噂として囁かれるだけだった。その段階を打破す
るために過激派青年層が事実に関する情報を集め始めた。はっきりしたことが明らかにな
ったのは、独立準備委員会スマトラ代表者であるメダンのテウク ムハンマッ・ハサンと
Mアミル、ランプンのAアバスが8月24日に帰郷してからのことだった。[ 続く ]