「宣言成就の遠い道(3)」(2025年02月17日) バンドンでは、同盟通信社バンドン支局が17日の昼にジャカルタから流れてきたラジオ ニュースを聞いたのが最初だ。そして全市内にそのニュースが流された。独立宣言文が紙 に印刷されて、それが市内全域に配られた。過激派青年層は市内の役所を占拠しはじめた。 ヨグヤカルタでは独立宣言直後の8月17日午後、キ ハジャル・デワントロが自転車で コンボイを組み、市民に独立宣言を触れ回った。スルタン ハムンクブウォノ9世とディ パティ パクアラム8世は独立宣言のニュースを知って8月18日にスカルノとハッタ宛 に連名で祝電を送った。スルタンとディパティは1945年9月5日に王国領民への布告 を行い、ヨグヤカルタスルタン国がインドネシア共和国中央政府に帰属したことを明らか にした。 スマランでは独立宣言のニュースがラジオで流され、その日の夕方に民衆大集会が開かれ て国政の主権をインドネシア共和国が握ったことが全市民に告知された。民衆は紅白旗を 掲げてパレードを行った。ウォンソヌゴロ副州長官は、1945年8月19日13時をも ってスマランがインドネシア共和国に帰属したことを市民に発表し、共和国の地方行政機 関としての措置を開始することを表明した。 スラバヤでは、独立宣言がラマダン月になされたために一週間くらいは静かな日々が続い た。ところが日本軍がオランダ人やオランダ系混血者をスラバヤの外に設けた抑留キャン プから解放したために、かれらがスラバヤの町に戻ってきたことで町中が騒然とし始めた。 戻ってきたオランダ人たちはホテルオラニエに入って9月18日夜にオランダ国旗をホテ ル建物の最上階に掲揚した。その直後にプリブミ市民がその場所に上がり、三色旗の一部 を引き裂いて紅白の二色旗にしてから掲げなおすという事件が起こった。 スラバヤの市民にとって、政治情勢に関する情報はラジオが主役を務めた。いくつも民間 ラジオ放送局が生まれ、独立宣言を行ったわが祖国がヨーロッパ人に再植民地化されるの を防ごうと説くラジオ局が人気を集め、ブン トモが運営する叛乱ラジオ局がその筆頭に 立った。ブン トモの火を吐くようなスピーチと、クトゥッ タントリというバリ名を名乗 る女性アナウンサーの英語とインドネシア語の放送にスラバヤ市民は聞き入った。 クトゥッ タントリの物語はこちらでどうぞ。 http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-18SUrabayaSoe.pdf バリと東西ヌサトゥンガラでは、独立宣言の噂が密かに口伝えで拡散した。青年層はデン パサルのニョマン プグッの家で会合を開き、独立宣言の確定情報と地方行政区が行わね ばならない仕事を確認するためにジャカルタへ情報収集に行くことを決め、使者を送り出 した。この地方は独立宣言のあと1945年8月18日に行われた州編成会議で、スンダ クチル州という地方行政区になった。 マルクの初代州知事に任命されたラトゥハルハリはジャカルタにいて、ジャワとスマトラ にいるマルク人3万人を指揮して独立宣言維持戦争に加わった。ラトゥハルハリはオラン ダ人寄りの傾向を持つマルク人のあり方に反対し、インドネシア人の一部になって民族独 立を守護することに情熱を燃やした。1945年10〜11月には紅白旗をマルクにはた めかせる努力を払っている。 パプアは共和国州編成会議でマルク州に含まれることになった。しかし現実にその当時の イリアンは連合軍の支配下にあってオランダの地方行政が行われていたため、インドネシ ア共和国パプア地方行政府はマルクに置かれ、土地と住民のない、名前だけのものになっ ていた。[ 続く ]