「大郵便道路(43)」(2025年02月14日) < プリアガン Priangan > ボゴールを離れるとプリアガンに入る。prianganはparahiyanganが訛った言葉であり、神 々の住む土地を意味している。古代の人間は、山々が神々の住む場所だと考えていた。 プリアガンの住民はスンダ人であり、かれらが話すとまるで歌っているように聞こえる。 だからかれらの大衆芸能は生き生きとしており、創造性豊かに発展し、ひとの心を捉える。 スンダ人は自らを山地ジャワ人と呼んだ。スンダ種族は山にいるのだ。プリアガンの山間 の土地で平穏に暮らしているかれらに、故郷の地を離れる欲求が起こらなかった。 スンダ種族は荒っぽさを嫌う。その地方で諸王は、誰が一番かということを決める闘争を 行わなかった。かれらは団結し、対話と合意を使って共通の苦難を解決した。封建制と騎 士の時代には、歴史はだいたいが戦争の歴史になったものの、プリアガンはそうでなかっ た。イスラムバンテンがヒンドゥパジャジャランを屈服させるのにたいした困難を経験し なかったのも当然のことだっただろう。 G30S事件後の赤狩りでインドネシアにジェノサイドが起こったときも、スンダ地方は 例外的な地方になった。スンダ地方に殺人事件がないと言っているのではない。殺人犯罪 はもちろん起こる。しかしジャワの社会で殺人が大規模に拡大したのとちがって、スンダ ではひとびとが同じようにしなかったということなのだ。 1629年に第二回バタヴィア進攻を行ったとき、マタラムは初回に行った海からの進軍 というミスを繰り返さなかった。進軍はジャワ島北岸とプリアガンを経由して陸路バタヴ ィアに向かった。当然、プリアガンの領主たちを支配下に収めた上でのことだ。だがこの 第二回進攻も失敗した。マタラム軍の将軍は責任を取らされた。死だ。溶けた鉛を口の中 に流し込まれて敗軍の将たちは死んだ。 プリアガン地方の領主たちの王子はジャワに連れ去られてジャワ化するための教育が行わ れ、ジャワ語とジャワ文学、ジャワ式イスラム、ガムランと舞踊、ワヤンなどのジャワ文 化修得で合格点が取れないと故郷に戻ることが許されなかった。領主たちは年に一度マタ ラムのスルタンに拝謁し、王宮前アルナルンの北側の土地の雑草の草取りをしなければな らなかった。 VOCもプリアガンに入り込むのにたいした困難はなかった。強制栽培制度が実施される ずっと前に、プリアガンではコーヒーステルセルが行われている。VOCの商売はそのお かげで大いに潤った。 大郵便道路はバイテンゾルフから東南に向かい、チアウィを経てから山越えをする。チア ウィからはチリウン川沿いに東に12キロほど進んでチサルアに達する。そのころ、チサ ルアはリームスデイクが所有する私有地になっていた。そこまでは比較的平坦に進んでき たというのに、チサルアを越えてから急峻な登り道の印象がいや増した。 ボゴールとチアンジュルの間に高い山が立ちはだかっている。海抜3,019メートルの パンラゴ山と海抜2,958メートルのグデ山を主峰とするグデ・パンラゴ山系がそれだ。 その山系の尾根を越える峠道を作るのがこの地域における大郵便道路の目的だった。チア ンジュルの手前にあるチュグナンまでの22キロのルートがプンチャッ峠越えの最強の道 路工事になった。 puncakというインドネシア語は頂点を意味しており、山の頂上を指して使われるのが普通 だが、このプンチャッだけはパンラゴ山の頂上ではない。標高1千5百メートルのプンチ ャッ峠はグデ・パンラゴ山系北部にあるスンブル山の頂上に続く尾根にある。スンブル山 の頂上は海抜1,557メートルであり、この近くには海抜1,538メートルのグヌン マス(Gunung Mas=マス山)もある。 このルートだけは既存の田舎道を拡張するような容易な工事でなく、大岩に阻まれて道路 幅を拡張するのさえ困難な箇所が随所にあった。その時代はまだ大規模な土木工事にダイ ナマイトを使う習慣がヨーロッパにも作られていなかったため、巨岩の連なる山腹を削っ ていく作業は人力で行われた。登り道の終わる峠は今プンチャッパスと呼ばれているが、 工事が行われていた時代にはメガムンドゥンという名前になっていたようだ。1904年 の地図にも標高1880メートルのメガムンドゥン山が記載されている。今のメガムンド ゥンはチアウィ側のプンチャッ街道入り口の地方を指している。[ 続く ]