「宣言成就の遠い道(4)」(2025年02月18日) スラウェシでは、独立宣言から数日後に独立準備委員会が知事に任命したマカッサル在住 のサム・ラトゥラギに地方行政府の編成が命じられて、スラウェシ島の地方行政機構作り が開始された。日本海軍による軍政の中心地であるマカッサルで、青年層は独立宣言を一 般市民に告知するために密かに宣伝ビラを作って撒布した。 カリマンタンは独立宣言の情報がまったく届かず、ひとびとがそれを知ったのは1945 年8月29日だった。それも中部カリマンタンのパンカランブンでその情報を得た役所が 紅白旗を掲げたことによって、はじめて住民の間にその情報が広がっていった。しかし東 カリマンタンにまで伝わるにはもっと時間がかかり、東カリマンタンの一般大衆がそれを 知ったのは一カ月後だった。 1945年9月半ばにイギリスインド軍を主体にするAFNEI軍が終戦処理のためにジャカ ルタに上陸した。そのあともタンジュンプリオッ港に連合国の船がどんどんやってきて補 給物資や軍隊を上陸させた。そのAFNEI軍の中にオランダ植民地政府(NICA)ならびに植民 地軍(KNIL)の人間がインドネシアの再植民地化を目的にして混じりこんでいた。そして 独立のユーフォリアに酔っていたインドネシア人への弾圧テロを開始したのだ。 ジャカルタのインドネシア人もそれに対抗して10月から二ヵ月間、ジャカルタのあちこ ちで抵抗戦を行った。中立であるべきAFNEI軍は治安維持の責任を負っていたことから攻 撃してくるインドネシア人に銃口を向けた。勝敗はあきらかで、12月にはジャカルタ市 内がAFNEI軍に完全制圧され、独立派インドネシア人はジャカルタ市域の外に追いやられ てしまったのである。 ジャカルタ市域の占領がAFNEI軍の方針であり、ブカシやカラワンへの進攻はNICAの欲す るところだったが、AFNEIは立場が異なっていたために独立派軍事力が陣営を構えている ブカシ〜カラワンの線を超える軍事的制圧は行われなかった。 NICAだけがそれを単独で行おうとしたものの、KNILの力がまだ植民地時代の勢いに戻って おらず、それを成功させるには時間が必要だった。必然的にブカシ川がNICAと共和国の境 界線になった。 1945年12月に入ると、治安が回復したはずのジャカルタ市内でインドネシア共和国 行政府に対するNICAのテロが政府要人の身辺にまで及んできた。12月26日、共和国内 閣首班であるスタン・シャッリル首相に対する殺害未遂事件が発生した。 そのとき自分で車を運転していたシャッリルがメンテン地区でKNILの一隊に銃撃されたの である。KNILの憲兵のひとりがシャッリルを見知っていたことから、かれが銃撃をストッ プさせた。不審な人間を射殺したところ、なんとオランダへの叛乱を企てる組織で首相と 呼ばれている男だったという暗殺ストーリーをNICAがでっち上げようとして企てられた芝 居がそのとき演じられたのだろうか? 28日には情報相アミル・シャリフディンの乗っている車が銃撃され、さらにその翌日に はついにスカルノの番がやってきた。 そんなジャカルタの状況を回避してインドネシア共和国を存続させるためにヨグヤカルタ のスルタン ハムンクブウォノ9世が首都移転を進言した。共和国首脳はそれに賛成し、 隠密の移動を計画した。1946年1月4日、共和国政府首脳は深夜に汽車に乗ってジャ カルタを脱出した。「その月のない夜にわれわれはまだ赤児のインドネシア共和国を新し い首都ヨグヤカルタに連れて行った」とスカルノは自著に書いている。 スルタンは自らトゥグ駅に出向いてその列車が到着するのを待った。スルタンは自分の王 都を新生インドネシア共和国の首都に提供しただけでなく、共和国初代大統領がはじめて 使うパレスをも用意した。スカルノはジャカルタにあるパレスを使う機会がなく、自宅で 執務していたのだ。 ヨグヤカルタに駐在したオランダ政庁レシデンのパレスがインドネシア大統領のはじめて のパレスになった。また共和国閣僚が使う事務所もヨグヤカルタの中心部に用意された。 [ 続く ]