「宣言成就の遠い道(終)」(2025年02月19日) ハムンクブウォノ9世は上述のように新生インドネシア共和国の存続を陰で支えた人物だ。 かれの功績はまだまだある。1949年7月、長引くインドネシアの民族主義を賭けたオ ランダとの戦争に対して国連が停戦を要求するようになり、インドネシア側に追い風が吹 きはじめたころ、インドネシア共和国はついに国費が破綻する状況に立ち至った。そんな 重態のインドネシアに6百万フルデンのカンフル剤をスルタンハムンクブウォノが注射し たのである。そのおかげで共和国は生き返り、ハーグ円卓会議での交渉の座に着くことが できた。スルタンはその金を共和国に貸したのでなく、寄贈したのだ。 ヌサンタラの他の諸王国はどうだったのか。リアウ州シアッインドラプラ王国のスルタン は1945年11月1日にインドネシア共和国に2万フルデンを寄贈し、王国を廃して共 和国の地方行政区になることを表明した。 アチェ戦争のために王国が消滅したアチェの住民は、実業家たちが中心になって13万ス トレーツダラー(シンガポールの通貨)と黄金5キロをインドネシア共和国に寄贈した。 この寄贈が行われたのは1948年6月16日のことで、スカルノ大統領がアチェを訪問 した際にそれがなされた。共和国政府はそのアチェ民衆の寄贈分でダコタ機を大統領専用 機として購入し、スラワと命名した。 1948年12月19日に共和国最大の危機が訪れた。オランダ植民地軍がヨグヤカルタ への軍事侵攻を行ったのである。インドネシア共和国の首都は占領され、共和国の正副大 統領は囚われの身となった。オランダ側が第二次警察行動と呼んだ軍事行動だ。 共和国の正副大統領は逮捕される前に西スマトラ州ブキッティンギにいる福祉大臣のシャ フルディン・プラウィラヌガラに電報を送り、ヨグヤカルタの共和国政府が正常業務を行 えない状況になった際には臨時政府を樹立して政府業務を継続するよう指示を与えている。 その指令に続いてハッタが首相として、またアグッ・サリムが外相として、それぞれ電信 通達をインドのニューデリーにいるスダルソノ、パラル、マラミスの三人に送り、シャフ ルディンが臨時政府の樹立に支障をきたした場合、インドにインドネシア共和国亡命政府 を樹立することを命じている。 シャフルディンはスマトラに臨時政府を樹立して全土で闘争中の民族独立の戦士たちに共 和国の存続を知らしめ、かれらの健闘を維持させることに成功した。オランダ側はヨグヤ カルタの陥落と占領、そしてスカルノとハッタの逮捕を大々的に宣伝し、スマトラの臨時 政府などというものは本当は影も形もない嘘であると報道したが、たいした効果は得られ なかった。 1949年末のハーグ円卓会議の結果、インドネシア共和国という民族国家が全世界に承 認された。そのときにインドネシアは名実ともの独立国家として国際社会に自立したので ある。その日を目指してインドネシア人は1945年8月17日に行った独立宣言を守り 通した。その間の4年数カ月に行われた闘争あるいは戦争をわたしが独立宣言維持戦争と 呼ぶのは、その方が客観的に感じられるからだ。 独立を宣言しさえすればもう独立した、という論理は主観の中のものでしかない。ダエシ ュでさえ国家宣言を行ったものの、国際社会を構成している諸国の中にダエシュが国家で あるというその宣言を認めた国家はひとつもなかった。アラブ世界の中にもなかった。い くつかの国の中で叛乱戦争を行っている集団がその宣言を認めたにすぎない。そんな集団 も国際社会は国家として認めていない。 インドネシア人は8月17日を独立記念日と呼んでおり、独立宣言記念日と言わない。こ のポイントに関しては、世界中にいる人類が主観性を正当なものにしているようにわたし には見える。客観的であることが人間としてより優れているあり方だという価値観は絶対 性を持っていないことをこの一例が示しているのではあるまいか。[ 完 ]