「ルフェールとペーパー時代(1)」(2025年02月20日) Koloniaal Instituut voor de Taal-, Land- en Volkenkunde van Nederlandsch-Indieが 1851年から発行を開始したコントリビューション(Bijdrage)と題する機関誌の編集や 寄稿に関わるようになってから、Gerret Pieter Rouffaerの名前が世に知られるようにな った。ヘレッ・ピーテル・ルフェールは植民地行政官でなくてKITLVの司書であり学 術研究者だ。ルフェールはそれ以前にハーグの植民地図書館で働いていたこともある。植 民地事情のエクスポネントのひとりと言えるにちがいあるまい。 かれが行った仕事のひとつに、スラカルタとヨグヤカルタのふたつのレシデン統治区の記 録文書をほぼすべて、数人の同僚と一緒に書写したことがあげられる。1890年になさ れたその仕事の成果が、1917年に出版されたオランダ東インド百科事典の中の王国領 (Vorstenlanden)の項目の内容を豊かなものにした。またそれとは無関係に出版された慣 習法集成(Adatrechtbundels)の第34巻の内容にも、かれの仕事の成果がたっぷりと使わ れている。 ジャワ島の歴史と文化の専門家のひとりとなったルフェールの能力を現地の行政統治に反 映させない手はないとだれしもが考えるだろう。イデンブルフが植民地大臣のときにジャ ワ島のプリブミ社会の文化・経済・社会状況の調査が行われ、ルフェールもそこに担ぎ出 されたのである。 折しもオランダ本国が女王のお声がかりで倫理政策に方針転換を行いはじめた時期でもあ り、ルフェールの持っていた、プリブミをフェアに見ようとする感受性と良識が現地行政 機構の保守的な性格を革新的でオープンな姿勢に導くのに一役買ったという評価も語られ ている。 ルフェールは「オランダ東インドのバティックアートとその歴史」を著作し、作品は19 14年に二分冊で出版された。その著作はオランダ人バティック愛好家にジャワバティッ クのセミオロジーを解き明かすものになった。かれは東インド植民地の民衆、中でも特に ジャワ人、を正確に理解しようと努めた。長い歴史の中で文化の不連続を体験し、抑圧さ れながら生きてきたのがかれらだったというポイントがその基盤に置かれている。 そんなかれらジャワ人の作り出したもののひとつがバティックアートであり、生きとし生 けるものの暖かみと偉大な魂がジャワ人の本質の中で燃えている姿がそこに示されている とルフェールは著書の中で語っている。 「ジャワとマドゥラの原住民の主要産業」と題するルフェールの著作が1904年にオラ ンダで出版された。全128ページのこの書物は、ジャワとマドゥラの地元民が行ってい る家内工業をルフェールが調査したときの報告書であるとも言える。 その著作の中でルフェールは、「植民地下のオランダ東インドを資本主義が襲い、農園産 業が祖国に莫大な商業利益をもたらしたとき、植民地民衆経済のあり方をいったい誰が気 にかけただろうか。そんなことを真剣に行った者はひとりもいなかった。」と書いている。 植民地民衆経済、中でもプリブミ民衆の家内工業を東インド政庁が真剣にケアしていない ことをかれは歯に衣着せずに批判したのだ。 かれが調査の中で得たプリブミ産業に関するいい話はすべて民間人が物語ったものだった。 そのありさまは少なくとも、19世紀後半に開始されたリベラル経済方針がグローバル市 場オリエンテーションを東インド経済に強く抱え込ませたことで、どんどんと深まってい ったように見受けられる。[ 続く ]