「大郵便道路(50)」(2025年02月25日) 1921年のバンドゥン住民総人口は10万2千人だった。1930年に東インド政庁が トマス・カーステンにバンドゥンの都市計画作成を依頼し、カーステンは25年先のバン ドゥンの発展状況を予測して計画書を作り上げた。カーステンの計画書は住民人口を75 万人と想定している。実現しなかったカーステンのバンドゥン市都市計画にはヨーロッパ 風の公園の町が描かれていた。公園やオープンスペースがたっぷりある、オランダ東イン ドの首都になってもおかしくないものだったようだ。 実際のバンドゥン市住民人口の変遷は、インドネシア独立後の1952年が66万人、1 959年99万人、2023年250万人というのが実績値になっている。250万人は 居住者の人口であり、周辺諸地域から働きにやって来るコミュータ人口を加えた昼間のバ ンドゥン人口は3百万人だ。 ウィラナタクスマ2世は、雷閣下、猛将軍などと呼ばれて腫物のように扱われていたダン デルス総督の命令に盲目的に従うような県令でなかった。県令はその地の地形を観察し、 そこに作られるべき町の構図を検討し、町の中心になるアルナルンをダンデルスの杖から 400メートルほど西の道路脇に定めた。 ダンデルスの杖は西にあるチカプンドゥン川から2百数十メートル東に立てられていたの だ。そこにアルナルンを設ければ、アルナルンの西に建てなければならない大モスクはス ペースの余裕が失われてしまうだろう。県令はチカプンドゥン川の西にアルナルンを設け ることでその問題を克服した。そのように物語っている解説がある。 ジャワ島の町々にはたいてい町の中心になる広場(アルナルン)が作られている。ジャワ 人はアルナルンをcatur gatra tunggal(四面一体)というコンセプトで設けた。南側は 行政センター、西側は宗教センター(たいてい大モスクがそこに建てられる)、東は経済 センター(たいていパサルが設けられた)、北は社会センターというのがチャトゥルガト ラトゥンガルの内容だ。 バンドゥンという地名の由来も諸説ある。せき止めるという意味のbendungが変化した ものという説によれば、昔タンクバンプラフ山が噴火して溶岩が流れ出し、チタルム川の 一部をせき止めた。そこに生まれた湖の岸辺に人間が集まって来て集落を作った。ひとび とはその土地を元々はブンドゥンと呼んでいたのだが、長い歳月の間にその言葉がバンド ゥンと言い慣わされるようになったというものだ。 別の説では、バンドゥン県令のウィラナタクスマがチタルム川を航行するために2隻の小 舟を並列につないで双胴船の形になったものを使っていた。県令はそのときの首府である クラピヤッから新しい土地に首府を移すために適切な場所を探していた。その船の形が perahu bandungと呼ばれるものだったことから、ダンデルスが指示した土地に県令が首府 を移したとき、新首府がその名前で呼ばれるようになった。 もうひとつはスンダ人の宇宙観を示す哲理であるNgabandungan Banda Indungという句に 由来しているというもの。バンダインドゥンという言葉は「母なるものが生み出したあら ゆるもの」を意味しており、天地創造説になぞらえることができる。 スンダ語のbandungという動詞は「共にある」を意味し、ngabandunganの形になれば「誰 かに付き添う、誰かに従う、誰かと共にあってフォローする」といった意味を表す。つま りこの句は天上天下に存在するあらゆる摂理を受け入れて自己をそれに合わせ、この宇宙 のあり方に同調して生きることを善として人間に教えているものと解釈することができる。 今度無理なことを言うスンダ人がいたら、是非~ガバンドゥ~ガン バンダ インドゥンとい う言葉をリマインドしてあげると良いかもしれない。[ 続く ]