「ルフェールとペーパー時代(終)」(2025年02月25日)

プリブミ家内工業に関する行政方針が植民地政庁内で1915年に転換を迎えた。OEN
局が管掌していた家内工業は新たに編成されたLNH局(農業・工業・商業局)に移管さ
れたのである。この局はプリブミのそれら産業が抱えている問題を取り扱うことを主管業
務にしていた。

この推移は植民地政庁内にあったプリブミ家内工業に関するコンセプトの変化を示すもの
と見ることができる。工芸職人への技能教育が中心的政策であると考えられていたものが、
ひとつの経済セクターという視点を併せ持つようになったのだ。

この局の工業係長の職に就いたペーテル・シッツェンはルフェールとよく似た考え方の持
ち主だったが、重点の置きように違いがあった。かれのジャワ人観はジャワ人がハードワ
ーカーであることを率直に認めていた。シッツェンが1937年の農業ジャーナルに寄稿
した「ジャワのプリブミ家内工業と発展の潜在性」と題する論文にはこう書かれている。

その技能は素朴な生産活動にたいへん重要な意味を持っていた。・・・かれらの活動には
たくさんの知恵と才能が示されていた。しかし狭い事業環境の中で満足してしまう面や、
製品のマーケティング能力が不足しているといった弱点も持っている。


LNH局は1915年以来、技術的学術的開発と資金援助の基盤を確保するために、家内
工業に関する調査を繁く行い、さまざまな実験ステーションを設けた。一方、それと同じ
時期に政府はオランダ人を中心にするヨーロッパ人製造産業界をまとめるための受け皿と
してセミ官製の工業コミッションを作った。

ところがプリブミ産業を発展させるために力を貸してほしいとの要請をこの工業コミッシ
ョンがきっぱりと拒否したことが大問題になった。まだひよこでしかないプリブミ家内工
業界を育てるための養い親になることをコミッションは拒絶したのだ。それどころか、L
NH局の傘下に収まることさえ、コミッションは受け入れようとしなかった。政府組織の
外で独立団体として活動したいとコミッションは要求した。

政府の倫理政策を一蹴したコミッションは非倫理的であるという批判に包まれた。プリブ
ミの経済発展を支援しようという意図がまったく欠如している東インドヨーロッパ人経済
界の姿勢がそこに暴露されたのである。


ルフェール、ファン デフェンテール、シッツェン、あるいは植民地行政官の誰であれ、
プリブミの経済活動にエンパシーを持ち、倫理としてそれを支援しようとする例はいろい
ろと出現し得た。だが誰一人としてヨーロッパ大規模工業を拝跪する姿勢を持つ植民地経
済政策の壁を突き崩すのに成功した者はいない。この植民地では大型工場を建設し地下資
源の探査を大がかりに行うような形の経済政策がオランダ王国発展のために求められてい
ることがらなのである。その土地に住んでいる者たちを幸福にしてやるためにオランダ人
がその土地にやってきたわけではないのだから。

プリブミ民衆経済の発展などというテーマは植民地エリート層が口にする、善意や正義で
身を飾るための話題でしかなく、本質的にはただの幻想でしかなかった。1930年代に
世界大恐慌がやってくるまでそのテーマは、果てしのない高官の視察旅行・サーベイ・議
論や意見交換などの形で費やされる時間・エネルギー・思考・予算の浪費にすぎなかった
のである。

いみじくも経済学者HJファン オースホットが形容したように、その時代はひとつの
「ペーパー時代」に過ぎなかった。インドネシアの民衆経済生活にとって、多くの美辞麗
句が紙の上を覆っていたにすぎないのだ。現実的な効果を持つ行動はまったく比較しよう
もないほど少なかった。[ 完 ]