「チャリウアン(1)」(2025年02月26日) インドネシア語で「金を稼ぐ」ことをmencari uangと言う。まるでどこかに転がっている 品物を探してくるように感じるひとがいるかもしれないが、それは辞書作成者がmencari に対応する日本語を「探す」としたために、「探す=見つけ出す」という語義がもたらす 語感からの影響にたいていの日本人が翻弄されることになってしまったからだ。KBBI に記されているmencariの語義は berusaha mendapatkan (menemukan, memperoleh)となっ ていて、見つけ出すことよりも「手に入れる」という語感のほうがはるかに強い。 Cari uang, yang gampangnya curi uang.などと不謹慎なことを言うひともいるのだが、 社会倫理が否定している行為はマジョリティ社会構成員も否定して当然だろう。 わたしのインドネシア語体験では、このチャリウアンという言葉は収入を得るために本人 が職業として行っているものに対して使われることよりも、職業の枠外で行われている日 常生活におけるサイドジョブでの使用頻度のほうがはるかに高いように感じられるのだが、 同感してくださる読者はいらっしゃるだろうか? もちろん、何らかの職業に就いて収入を得る行為もチャリウアンの概念の中に含まれるか らその語法もあって当然であるにせよ、職業の外で行う金稼ぎに対してチャリウアンとい う言葉が頻繁に登場することをわたしは指摘しているのである。 日本文化が持っている金銭感覚(視点を変えれば職業感覚とも言える)とのベーシックな 違いがそこに横たわっているようにわたしには感じられる。昔の日本文化では、金を手に 入れるのは職業を通して行うのが健全なあり方とされていたように思う。ひとりの人間が 複数の職業を持つことに対してすら否定的な視線が感じられたように思えるのだが、それ にもまして、何かひとつの職業を持っている人間が余暇の時間を使って別の何かを行い、 それによって金稼ぎすることも否定的な反応を招いていたのではないだろうか。 ネガティブさの理由の中には、金銭観が持っている価値観に由来するものもあっただろう し、職業コンセプトが持っている観念によって否定される面もあっただろう。 ところがインドネシアでは、あくまでもわたしは一般論として語っているのだが、その本 人が営んでいる職業の枠内における活動でなく、職業の枠外で行う金稼ぎ行為がたいへん 肯定的に受け止められていて、大きい成果を上げている人間に賞賛が投げかけられるのを わたしはしばしば見聞してきた。 そういう場面でチャリウアンという言葉をよく耳にするために、この言葉の語法は職業か ら得られる収入よりも職業外で獲得する収入により強くフィットしており、しかも金銭を 手に入れようとする行為主体者の追求心理までもが匂ってくるようにわたしには感じられ るのである。わたしの抱いている語感はそんな語体験によって培養されたと言えるかもし れない。 たとえば、ある医者についてDokter itu pintar cari uang.と誰かがコメントしたとき、 それは医者の仕事が儲かっていることを述べているのか、それとも医者という職業の場に おける人間としてでなくて単なる一個人として資金集めなどの才能が秀でていることを述 べているのか、いったいどちらの用法が優勢なのだろうか?[ 続く ]