「ディアスポラ」(2025年03月04日)

ライター: インドネシア大学文化学部教官、カシヤント・サストロディノモ
ソース: 2018年7月14日付けコンパス紙 "Diaspora, Perantau, Pengelana" 

この新聞の2017年7月21日版の読者投書欄にスギオ・ソスロスマルトさんの投書が
載った。かれはこんな意見を表明した。暫定的であれ恒久的であれ、国外に居住している
インドネシア人をdiaspora Indonesiaという言葉で呼ぶのは不適切に思われる。その理由
は、紀元前6世紀にユダヤ人がパレスチナの土地からローマ人支配者によって追放された
できごとをディアスポラという言葉が指しているからだ。つまりディアスポラという言葉
には追放・苦衷苦難・サバイバルの暗意がからまっているから、ディアスポラを使わない
でperantauやkelanaに替えるのが妥当ではないだろうか。もちろん、法の追求から逃れる
ために国外に逃亡した者にそれらの語は使えない。

投書者はディアスポラという言葉のひとつの語義だけを採りあげて上の論を呈したように
見える。実は国語センターのKBBIにも確かにそのような語義解説が記されているのだ。
「自分の国を持たない一民族が世界中に散り散りになっていた時期、たとえば1948年
にイスラエルを建国するまでのユダヤ民族」

しかしディアスポラという言葉が持っていた政治的な意味合いは今やもう終結してしまい、
単に世界のメモリーの中に残されているだけかもしれない。Hornby-Parnwell(1972)や
Echols-Shadily(1976)などの英語インドネシア語辞典を見るなら、そんなことがらはもう
忘れ去られていることがわかる。 

英語英語辞典の多くもディアスポラの語義をひとつしか述べていない。ところがGrolier 
Webster International Dictionary(1974)やCambridge Advanced Learner's Dictionary
の最新版(2015)にはふたつの語義が出ている。ひとつは政治的な意味合いにおける大文字
のthe Diasporaと、もうひとつは「元のひとつの国から別の国々へひとびとが散らばるこ
と」という定義の小文字のdiasporaだ。この言葉は更に国境を超えないまま、ある地域か
ら別の地域へ移住することにも使われるようになっている。2017年に出された書籍の
副題にDiaspora Orang-orang Bugis-Makassar dan Mandar di Pulau Baliという語句を見
出すことができる。

現代文化研究の中でディアスポラという術語はしばしば、短期間と長期間や定住を問わず、
人間の遠距離移動の概念を表すために用いられる。そこには世界各国に散らばったパレス
チナ人、米国とイギリスに移住したカリビア人、フィジーとカナダのインド人、中東のフ
ィリピン人のような難民や流民も含まれている。ディアスポラは資本主義を信奉するコー
ポレートエグゼクティブとローカルパートナー、あるいはグローバリゼーション派官僚・
政治家・プロフェッショナル間や、マスメディアと事業主などのようなトランスナショナ
ルエリートネットワークを構築するグローバル現象の最終的なサインと目されている。

一般的な意味において、ディアスポラは確かにプランタウに似ている。生活や学問を求め
て外国へ出て行くひとを指す言葉がプランタウだ。そのどちらも、将来故国に戻ることを
理想にしているという同じ要素を持っている。ただこれまでのところでは、プランタウに
政治的なニュアンスは付着していない。人類学や社会学の研究において、典型的なプラン
タウは仕事や学問のために自由意志で故郷を出て行くひとたちの姿をしている。ハムカの
1939年の著作「Merantau ke Deli」は独特のプランタウの姿を題材にしたものだ。コ
ロニアル時代の東スマトラの農園に各地からやってきた契約労働者たちの困苦あふれた生
き様がそのテーマになっている。

クラナについてのKBBIの定義は「特定の目的先を持たずにあちこちを旅する」となっ
ている。つまりpengelanaはorang yang berkelanaあるいはpengembaraを意味しているの
だ。この言葉はパンジ物語のような古典文学でよく用いられているように、スピリチュア
ルなニュアンスがたいへん強い。