「アンケは紅渓か?(前)」(2025年03月05日) 西ジャカルタ市タンボラ郡(Kecamatan Tambora)にアンケという町(Kelurahan Angke)があ る。ところがもっと西側を流れているアンケ川(Kali Angke)はアンケ町に接していない。 アンケと呼ばれる川はアンケ町の西側にあるグロゴルプタンブラン郡(Kecamatan Grogol Petamburan)ジュランバルバル町(Kelurahan Jelambar Baru)およびジュランバルバルの北 側に位置する北ジャカルタ市プンジャリガン郡(Kecamatan Penjaringan)プジャガラン町 (Kelurahan Pejagalan)に接していて、アンケ川はアンケ町と無縁でございます、という 顔で北に流れて西バンジルカナル(Banjir Kanal Barat)に注いている。 アンケ(Angke)という言葉は1740年10月9日から三日間に渡ってバタヴィアで吹き 荒れたVOCによる華人の大虐殺の嵐に由来しており、大量の血が流れてアンケ川が真 っ赤に染まったことから、紅渓(福建語発音でang khe「アンケ」)という言葉が川とそ の地域一帯を指す固有名称として定着したという説があり、大勢のインドネシア人がそ の話を信じている。 必然的に、その大勢のインドネシア人のひとりからそういう話を聞かされたり、あるいは インドネシア語サイトから情報を取った外国人もその話を信じてしまうことになるだろう が、Angke=紅渓説は華人の知恵者が悲劇をドラマチックに彩ろうとして作った創作のよ うに最初わたしには思われた。 ところが、そのうちに華人大虐殺事件の因縁を物語る話が都内各地にあることを知るとと もに、それらがどうも史的事実と合致していない印象を受けたことから、これはひょっと したら華人を威嚇する意図を隠して物語られているストーリーではないかという可能性を 感じるようになった。そんなわけで、わたしはこれに関連してどうも居心地の悪い感情を 抱くようになっている。 ともあれ、アンケ=紅渓説を信じるなら、1740年より前にはアンケという地名が存在 しなかったことになる。ジャカルタの北部一帯はもっと古い時代から人間が往来し、地名 が付けられていた地域だ。わざわざ華人大虐殺事件を記念して、それ以前にあった地名を 屑籠に捨て、血塗られた地名に変えるようなことを地元民たちが本当に行うだろうかとい う疑問がわたしには湧く。 華人大虐殺事件にからめて、アンケはバンケから転じた言葉だという説もある。バンケと はbangke=bangkaiのことで、bangkaiは死骸を意味するインドネシア語だ。 アンケ川に累々と死骸の山が築かれて、川の水が紅に染まった。「華人が水のことを言う のなら、こっちは死骸を吹聴してやろう。」と思ったのかどうかはわからないが、ともあ れ同じ事件を素材にして、その言い出しっぺはナショナリズムのうずきを心中に掻き抱い たにちがいない。 ともあれ、そのいずれにしても、バイアスがバイアスを呼んで、とんでもない方向へと迷 走している気配がわたしには濃厚に感じられるのである。 やはりインドネシア語サイトにアンケ要塞(benteng Angke = Fort Angke)の記述がある。 それによれば、アンケ要塞はアンケ川の岸に1657年に建設され、要塞を水城にするべ くロンドロスト・ヴィンセント・ファン・モーク(Londrost Vincent van Mook)がチサダ ネ川(Kali Cisadane)から運河を掘って水を寄せた、と記されている。ファン・モークが 指揮して作ったその運河はモーケルファール(Mookervaart)と名付けられた。モーケルフ ァールは今もタングラン市内のチサダネ川とアンケ川を結んでダアンモゴッ(Daan Mogot) 通りの脇を流れている。 そのとき、バタヴィアのVOCはバタヴィア城市防衛戦略の一環としてそのアンケ要塞と ゼーフェンフック(Zevenhoek)およびノードヴェイク(Noordwijk)の三つの要塞を建設し、 城市外に設けた他の要塞と併せてバタヴィア城市外防衛線の充実を図っている。 VOCが折に触れて作成したバタヴィアと周辺地域の地図の上にアンケ要塞の記載があり、 アンケの綴りはAnk?, Anckee, Anke, Ankeeなどと一定していないものの、アンケ川の岸 に作られたアンケ要塞という事実は動かしようがない。[ 続く ]