「大郵便道路(55)」(2025年03月04日) 1942年の日本軍の占領によってオランダ人はバンドゥンの町から姿を消したものの、 ジャワのパリと呼ばれてその美観を絶賛されたバンドゥンの町はそっくりそのまま残され た。そのバンドゥンの町が1946年3月24日に火の海になったとインドネシア共和国 正史は物語っている。 独立宣言からしばらく経った9月27日朝バンドゥン市内で、ジュアンダ技師に率いられ た鉄道職員が鉄道総館を奪取し、また別の青年市民層が電信電話局を制圧した。10月9 日にはキアラチョンドンの兵器廠が武装集団に占拠された。そして日本軍の統治下にある バンドゥンの政治主権を握るためにスンダ人青年層が対日戦闘行動を10月10日に開始 した。日本軍もそれに対抗して軍事行動を開始した。連合国から治安維持の責任を負わさ れているのだから。 10月12日にジャカルタのAFNEI軍から分遣隊が列車でバンドゥンに到着したが、市内 の治安回復よりもオランダ人抑留者の解放を優先し、解放抑留者に武器を与えて対インド ネシア戦闘に参加させた。市中の治安維持活動は戦闘中の日本軍に委ねたまま、分遣隊司 令官が全体の指揮を執った。 バンドゥンの市街は北をAFNEI軍が確保し、南はインドネシア共和国軍が支配下に置いた。 とは言っても、南にも旧植民地軍の拠点や兵器庫が散在しており、NICA軍を含むAFNEI 軍とインドネシア共和国軍は南バンドゥンで入り混じっていた。 バンドゥンでの交戦は拡大して11月末には西ジャワの共和国軍がバンドゥン周辺に結集 し、戦争の規模が拡大していった。AFNEI軍分遣隊司令官は西ジャワ州知事に一般市民の 戦闘をやめさせるように求め、すべてのインドネシア人が北バンドゥン地区から退去する ように命じた。警官も軍人も含めてインドネシア人がひとりもいないようにせよ、という 命令だ。最終的にインドネシア側はその命令に従わざるを得ないという政治判断を下した。 戦闘地域は南バンドゥンに移った。しかし南バンドゥンでの市街戦はインドネシア側に不 利だ。プリブミ住民が大勢生活している地域で大規模戦闘が行われたら、多数の市民が巻 き添えを食うことになる。インドネシア側はバンドゥン市内から総退去することを決めた。 住民総退去の日取りは1946年3月24日と決まった。インドネシア人はバンドゥンを 焦土にして町から去ろうと誓った。 3月23日の夜に、すべてのバンドゥン市民が自分の家を捨てて徒歩で町を離れた。別の 町に住んでいる親戚知人を頼って、一家をあげての旅路に出るのだ。数十万人の難民の列 がバンドゥン市内から周辺の町に向かって流れ出した。百万人と書いているイ_ア語記事 もある。この市民の流れを整理する役目を共和国の警官と軍人が務めた。しかし警官や軍 人たちの心の中は煮えくり返っていた。われわれは独立国家の国民になったのだ。もう植 民地の奴隷ではない。 市民の大部分が町を出たころ、市内のあちこちで火の手があがった。それに呼応して、南 バンドゥンのあちこちに設けられていたAFNEI軍やNICA軍の拠点に対するインドネシア側 の攻撃が始まった。 その夜、ガルッのパムンプッ山頂にいた新聞記者が燃えさかっているバンドゥンの光景を はるかかなたに遠望し、タシッマラヤに戻って記事にした。その記事は1946年3月2 6日のスワラムルデカ紙に掲載された。 かれの書いた記事の見出しは「Bandoeng Djadi Laoetan Api」となっていたものの、編集 者はそれを「Bandoeng Laoetan Api」と短縮し、その文句がこの事件の公称としてインド ネシアの歴史の中に定着した。歌曲「ハロハロバンドゥン」はこのバンドゥン火の海事件 を歌ったものだ。[ 続く ]