「大郵便道路(56)」(2025年03月05日)

1955年4月18日バンドゥン市内のGedung Merdekaでアジアアフリカ会議が開催され
た。グドゥンムルデカはバンドゥン最初の西洋式ホテルHotel Savoy Homanの向いの建物
で、オランダ時代に軍人のための社交クラブとして設けられた。Concordiaと名付けられ
た軍人用社交クラブはバタヴィア・バンドゥン・スラバヤなどの主要都市に開かれ、オラ
ンダ東インド植民地軍の将校とプリブミ貴族たちだけが中に入るのを許された。1879
年に建てられたバンドゥンのコンコルディアは日本軍政期も将校クラブとして使われた。
日本軍は建物の名称をDai Toaに替えた。

サヴォイホマンはバンドゥンで最初に開業したホテルであり、開業したのは1880年だ
った。ドイツ人ホマンの一家がオーナー兼事業主だった。最初は竹製の建物で事業が開始
され、1939年にアールデコストリームラインのデザインを持つ恒久的な建物になった。

1955年当時のバンドゥンの主要ホテル、Savoy Homann, Preanger, Astoria, Orient
など14ホテル、さらにレンバンからチウンブルッにかけての貸ビラやバンガローが軒並
み借り上げられて会議参加デレゲーション1千5百人の宿舎にされた。そればかりではな
い。世界各国のメディアとジャーナリズムが5百人の報道関係者を送り込んできた。

国家指導者たちは最高級ビラに入り、スタッフたちは市中の高級ホテルに泊まりこんだ。
報道陣のためにグドゥンムルデカに近いホテルイスラムスワルハにセンターが置かれた。
その時期、ジャカルタ国際空港はクマヨランにあった。ジャカルタとバンドゥンを結ぶ道
路交通、鉄道、通信回線などが急遽、国際レベルのものにグレードアップされた。

会議実行委員会はセダン車140台、タクシー30台、バス20台などおよそ2百台の車
両を確保し、230人の運転手を雇った。車両用燃料は石油会社スタンヴァックが毎日3
0トンを供給した。

実行委員会は通訳を必要とした。国際会議には当然の要素だ。会議参加国のほとんどは英
語もしくはフランス語の通訳を求めたが、完全独立したばかりのインドネシアにその言語
環境はほとんど存在していなかった。委員会は結局、海外に向けて通訳募集を行うことに
なった。


バンドゥンがアジアアフリカ会議の開催地に選ばれたのは、オランダ時代にジャワのパリ
と呼ばれていたバンドゥンのメトロポリタン性と環境の快適さのためだったと言われてい
る。

アジアアフリカ会議とは、ヨーロッパ諸国の植民地にされていた諸民族に民族主権を持つ
独立国家にならなければならないという思想をプロモートするためにスカルノが企画した
国際会議だ。スカルノが抱いた民族独立思想がヌサンタラを超えて世界に広げられたとい
う見方もできるだろう。

この会議には29ヵ国が参加し、北の諸国が東西のブロックに分かれて対立している冷戦
状態を批判して、南の諸国はどちらのブロックにも属さないノンフロックとしてその対立
構造を終結させるよう求めるバンドゥン宣言を採択した。


完全独立を勝ち取ってまだあまり間もないインドネシア民族が主催する国際会議とあって、
国民もこの会議に肩入れした。会議に出席するためにやってくる大物国家元首がクマヨラ
ン空港に到着すると、出迎えに集まった群集から拍手や喝采が飛んだ。

その代表的な人物は周恩来、ナセル、ネールたちだった。ネール首相は娘のインディラを
伴ってきた。後にインディラ・ガンディとしてインドの首相を務めた人物だ。巨体に微笑
みを欠かさないナセル大統領も大いにひとびとの注目を集めた。

この会議が共産中国の参加を受け入れたことにパキスタンとスリランカを中心にして異議
を唱える国々が出た。共産主義に関する論争も発生した。そんな情勢を踏まえて行われた
周首相のスピーチは、共産主義をプロモートするような内容になっていなかった。

われわれがバンドゥンに集まったのは、われわれの違いを言い立てるのが目的でなく、わ
れわれがひとつになるためのものだ。信仰の自由は現代世界で認められた原理であり、私
自身は無神論者であっても、信仰を持つ人にわたしは敬意を払っている。周はそうスピー
チの中で語った。[ 続く ]