「アンケは紅渓か?(後)」(2025年03月06日) それどころか、もっと古い時期にアンケを名乗る人物がジャヤカルタを統治している。イ スラム化したチルボンとドゥマッの連合軍がヒンドゥブッダのスンダ王国の要港バンテン の攻略に向かい、1526年にバンテン港と周辺地域がイスラム軍に占領された。イスラ ム軍はバンテン港一帯をチルボン王国の所領とし、チルボンのスルタンの息子シェッ・マ ウラナ・ハサヌディン(Syekh Maulana Hasanuddin)がその領主になった。 翌1527年にドゥマッ軍指揮官としてバンテン攻略の采配を振るったファタヒラがバン テンの隣にあるスンダ王国の要港カラパに進攻して征服した。そのときの進攻はもはやチ ルボンとドゥマッの連合軍という体裁ではなくなり、バンテンが組織した軍隊として出兵 が行われている。ファタヒラ自身も既にバンテンの支配権中枢センターの高官に立場が変 わり、バンテンの栄華と繁栄を求めて地歩固めに邁進していたころだ。 征服されたカラバはジャヤカルタと名を変えてバンテンの属領となり、ファタヒラ自らが 領主としてそこを治めた。そしてバンテン王国スルタン・ハサヌディンの娘ラトゥ・プン バユン(Ratu Pembayun)を妻にしたトゥバグス・アンケ(Tubagus Angke)に1564年、フ ァタヒラは領主の座を譲った。アンケは1596年までジャヤカルタの領主を務めてから、 息子のウィジャヤ・クラマを後継者にした。 トゥバグスというのはラトゥ・バグス(Ratu Bagus)の短縮形で、バンテンの貴族を示す尊 称であり、そしてアンケという名もその人物の本名でなく、地名が用いられたようだ。 トゥバグス・アンケと呼ばれた人物はバンテン軍の指揮官のひとりであり、ファタヒラの カラパ攻略の際に軍を率いて勝利した。そのときかれが軍勢を布陣させた場所がアンケだ ったと見られている。つまりジャヤカルタが誕生する前からアンケという名前の場所が存 在していたと見てまちがいないだろう。 いやいや、それどころではない。芸術文化を本領とするラフマッ・ルヒヤッ氏の著作「ジ ャカルタの地名の由来」なる書物をひもとくと、15世紀にジャワ島中部のトゥガルとプ カロガンの中間にあるプマラン(Pemalang)の町からカラパに航海したブジャンガ・マニッ (Bujangga Manik)という人物が書き遺した記録には、スンダ語でこのように書かれていた そうだ。 ... nu badayung urang Tanjung, nu nimba urang Kalapa, nu bobosek urang Angke... ラフマッ氏はそれをこうインドネシア語訳している。 ... yang mendayung orang Tanjung, yang menimba orang Kalapa, yang mengayuh orang Angke... angkeという言葉の意味をKBBIで調べると、(ikan) nuri-nuriという説明に出会う。 ジャワ語やスンダ語を探してみたが、angkeという綴りの単語には出くわさなかったから、 angkeというのは魚の種類を示すムラユ語系の単語ではないかと思われる。ひょっとした ら、アンケは最初漁村だったのかもしれない。 ヌリ(nuri)という魚を調べたところ、メガネモチノウオ(いわゆるナポレオン魚)を含む 種であることがわかった。ナポレオン魚は英語で humphead wrasseと呼ばれ、humpとは 「こぶ」や「隆肉」を意味している。 それに対応する中国語名称は隆頭鸚哥魚で、「鸚哥」とは鳥のインコのことだ。北京語発 音はインクー(Ying ge)であり、訛ると「アンケ」になりそうな気もしたのだが、古来か ら東南アジアとコンタクトを持っていたのは中国南部地方であり、北京が中国の政治文化 の頂点に立つのはもっとずっと後の時代だから、北京語を話す漁民がそんな時代に東南ア ジアにやってきたとは考えにくい。だから福建語や広東語の発音を調べてみたが、「鸚哥」 という文字はいずれも「インコ」という発音になっていた。 ひょっとしたら、カラパにやってきた華人がナポレオン魚をインコと呼んでいたのがアン ケという地名の由来だったかもしれない。もしもそれが当たっているのであれば、アンケ 事件の中国語表記は紅渓惨案でなくて鸚哥惨案と書く方が史的事実を正しく踏まえた姿勢 になりそうにも思えるのだが、はてさて・・・・?[ 完 ]