「大郵便道路(59)」(2025年03月10日)

服飾以外にブラガ通りで著名だった店としてTabaksplant葉巻煙草店とHorlogerie Stocker
時計店が挙げられる。レストランもフランス料理を看板にした店が通りのあちこちにでき
た。今はBeraga Permaiという名前になっている昔のMaison Bogerijnは1923年にオー
プンしたころからメニューがフランス語で書かれていた。Hors d'Oeuvre de luxe, Petits 
Pois aux Laitues, Pommes Dauphine ....

そんな高級レストランを頻繁に利用したのはプリアンガープランターズやマネージャーた
ち、そして工学高等学校をはじめとするヨーロッパ式教育機関の教授たちだった。今のブ
ラガプルマイはフランス語の料理メニューを使わないものの、オランダ人の食事に不可欠
な種類のパンを相変わらず重要な商品にしている。

同じように、店名をインドネシア語に変えてオランダ時代のビジネスを今でも続けている
店がブラガ通りにはいくつかある。そのひとつが1929年にオープンしたパンとケーキ
の店Het Snoephuis。

今ではSumber Hidanganという店名に替わってはいるものの、店内のショーケースにはオ
ランダ時代に使われていたmelk brood, roomsoes, bitterballen, doublet bokkepootjes, 
kattetong, speculaasなどのオランダ語名称がそのまま書かれた商品ラベルが商品の前面
に陣取っている。

店内の造作や家具なども昔の状態が保存され、アンティークな雰囲気のイスとテーブル、
店内を飾っている古色蒼然たる大型ラジオや金銭出納器などが来店客にあたかもタイムス
リップしたかのような思いを抱かせている。昔の手動金銭出納器は今でも使えるのだが、
現代ルピアの桁数がとても収まりきらないためにレジで使うわけにいかないのだそうだ。


バンドゥンのブラガ通りが華の都の様相を呈したのは1920年から1942年までの期
間でしかなかった。しかもその様相を演じた主体者はヨーロッパ人であり、わずかな例外
を除いてプリブミ大衆には縁のない世界だった。

日本軍がやってきてインドネシアの全土が戦時体制に包まれたためにプリブミ大衆は、衣
料品はもとより、生活必需品を手に入れるのがやっとという暮らしに陥って、ヨーロッパ
人が姿を消したバンドゥン市中からライフスタイルを楽しむような振舞いも消え去った。
今のブラガ通りは百年前の入れ物に入った現代インドネシアのユニークさを楽しむための
観光スポットになっているようだ。


バンドゥンは種々の綽名を与えられている。kota kembangというのもそのひとつ。「花の
町」というのは遠い昔、この町が木々草花で満ち溢れる町だったということに由来してい
るとその由緒来歴を語っている説がある。Ibu kota Asia Afrikaというのは1955年の
アジアアフリカ会議に因んだもの。

その他にもBandung Excelsior, De Bloem van Bersteden, Paradise in Exileなどがあっ
て、貶称すら作られている。中でもオランダ人が与えたParijs van Javaという綽名は、
19世紀後半になってオランダ人が自分の支配下にある植民地のすばらしさを西洋社会に
宣伝して観光客を誘致するツーリズム振興に力を入れるようになった結果作られたものだ
そうだ。

バンドゥンをパレイスファンヤファと呼び、ガルッをSwitzerland van Java、バタヴィア
をVenetie van Java、スマランをBrava van Javaなどと称して、遊びに行って見たいとい
う誘惑をヨーロッパに住んでいる人々の心の中に注入した。

スマトラでも似たようなことが行われて、パレイスファンスマトラの称号はブキッティン
ギに与えられたものの、メダンをそう呼ぶひとびとが現れた結果、スマトラにはパリがふ
たつあることになった。挙句の果てにパレイスファンセレベスやパレイスファンボルネオ
まで登場する始末で、まあこういうものは個人の感性の所産だから公式性をそこに求める
ほうが大人げないようにも思われる。

旅行者としてパリを一見してくれば判ることで、パレイスだと言われたヌサンタラの諸都
市にご本家が持つ重厚さを備えたところなどひとつもあり得ないようにわたしには思われ
るのだが、まあこれも感性の問題かもしれない。[ 続く ]