「大郵便道路(65)」(2025年03月18日)

それらのスムダンの町を包囲する形で建てられた三要塞より一年早く、別の二つの山に軍
事施設が設けられたことを郷土文化研究者が教えてくれた。スムダンの町から1キロほど
離れた標高645メートルのPalasari山に6百Haの広さを持つ軍事施設が建設された。

コンクリート製の8つの構築物が放射状に建てられていて、それらの構築物には扉を持つ
部屋数が総数で27、窓は25で換気孔が46ある。町との距離が近いことから、町の防
衛軍がそこに駐屯し、同時に火薬庫としても使われたようだ。

もうひとつの山はKunci山だ。このクンチ山要塞もスムダンの町から西に1キロほどの距
離にある。構造物は面積2千6百平米の四辺形をしており、地下に450平米の地下室が
備えられている。周囲はコンクリート製の塹壕とトーチカで囲まれ、一番高いところに長
さ70メートル幅30メートルの防壁がある。中央部分の少し奥まった位置にベッドが5
〜7台置ける広さの部屋がいくつかある。この構造物の一番上には土が盛られて、丘の頂
上のような偽装が施されている。

頂上のすぐ下は2階建ての建物で、駐屯部隊の宿舎だったように見える。上階は士官、下
の階は下士官と兵が起居したのだろう。部屋を隔てる壁の厚みは1.2メートルあり、壁
に通話孔が備えられている。部屋のほとんどは長方形で天井がドーム型になっている。ま
た直径3メートルほどの円筒形の部屋も作られていた。

この建物にはおよそ2百メートルの洞窟通路があって、地下に作られた部屋につながって
おり、また要塞内部に出る扉にもつながっている。この地下構造には人造の洞窟が17あ
った。


クンチ山の要塞はインドネシア独立闘争期に共和国軍ゲリラの拠点に使われた。NICA
軍はその要塞をF−51ムスタングで空襲したが、馬が一頭犠牲者になっただけで、人間
の被害はなかった。

クンチ山要塞はよく保存されていて、休日には一般市民がピクニックに訪れ、あるいは恋
人たちがふたりだけの時間を過ごしにやってくる。しかしスムダンに築かれた他の要塞は
荒れはてるがままになっているようだ。


インドネシアの独立闘争期にスムダンで華々しい戦闘が何度か展開されている。1947
年にNICAが行った第一次警察行動の際、NICA軍はスムダンを占領するためにバン
ドゥンから大郵便道路伝いに進撃してきた。

タンジュンサリ地区が占領され、ウェダナのリリ・ナタクスマが捕らえられた。勢いに乗
ったNICA軍はスムダンの街中に攻め込んでくる。町を防衛するために集まっていたプ
リブミ戦士たちとの間で戦闘が始まった。しかし武器兵器の優劣を覆すのは困難で、プリ
ブミ戦士たちは押されて街から撤退せざるを得なくなった。スマランの町はNICAに占
領され、NICAは住民のひとりをブパティに指名して行政を行わせた。

1948年にシリワギ師団が西ジャワに戻ると、オランダの占領地区を奪回するためにス
ムダンへの攻撃が開始された。NICA軍スムダン守備隊はその攻勢に圧倒されたものの
なんとか踏みとどまり、バンドゥンに援軍を要請した。それに応じてバンドゥンから特殊
部隊2個中隊が急行してきた。

NICA軍の守勢は一気に逆転し、シリワギ師団攻撃部隊は反撃されて退却した。植民地
軍はそれを追ってスムダンの北部にあるブアドゥア地区までをも制圧した。

1949年にはブアドゥア地区での戦闘でシリワギ師団部隊長と4人の衛兵がNICA軍
に射殺された。衛兵のひとりは逮捕されて師団の配置を言うように拷問されたが口を割ら
なかったので、射殺されたばかりかその遺体が放置された。1949年4月11日のブア
ドゥアの戦闘を追憶する碑がチブブアン村に建てられている。[ 続く ]