「大郵便道路(68)」(2025年03月21日) 16世紀のはじめごろには、ヨーロッパ人旅行者までがその港町にやってきた。トメ・ピ レスがこの町に立ち寄って殷賑な商港という印象を書き遺し、デイエゴ・リベイロも15 29年に描いた地図にチャルバンという港町の名を書き込んでいる。 パゲラン アルヤ チャルボンが1720年に書いたプルワカチャルバンナガリの書には、 チルボンという地名の由来はSarumbanであり、それがCarubanと言い慣わされるようにな ったと記されている。 古説にいわく、15世紀に、チルボン湾の沿岸にムアラジャティと呼ばれる小さい漁村が あった。そのころから諸国の商船がそこにやってきて交易を行った。商港になればその地 を支配する王国が交易の管理をするようになる。ガル(パジャジャラン)王国がキ グド ゥンアランアランを港務長官に指名した。港は栄え、やってくるイスラム商人も増加し、 ムスリムになる住民も増えた。 ガル王国との交通の便を高めるために、キ グドゥンアランアランは町を5キロほど南に 移動させた。新しい町はLemahwungkukと名付けられ、キ グドゥンアランアランは町の行 政統治者に任じられてKuwu Cerbonの称号を与えられた。 時代が代わって、パジャジャランのシリワギ大王の息子ワランスンサン王子が大王の振舞 いを嫌い、母親を伴って一家で王宮から逃亡してチルボンに住み着いた。そしてキ グド ゥンアランアランの後を継いでクウの職に就いた。 別の話では、大王がワランスンサン王子をチルボンのアディパティに任じ、チャクラブア ナの称号を与えたと語られている。格位の高いアディパティは宮殿を作り、王領としての 威勢を高めた。行き着くところはガル王国への貢納廃止だ。しかしガルの王はそれを受け 入れようとせず、チルボンの支配権を維持するために軍勢を送った。そして一戦交えた結 果はチャクラブアナの勝利に終わり、独立チルボン王国が誕生した。チルボンスルタン国 の発端がそのできごとだったという話になっている。 ワランスンサン王子は1423年に生まれて1529年に没した。イ_ア語ウィキペディ アによれば、1460年にチルボンのトゥムングンの地位に就いたと書かれており、チル ボン王国の始まりがそのころだったことを推測させる。 トゥムングンとはジャワの王国で宮廷に仕える上級家臣であり、財務担当のブンダハラに 次ぐ地位にあって軍事や外交などを担当した。言うまでもなく王の上級家臣は自分の領地 を与えられたから、領民の立場から見るなら宮廷でブンダハラになっていようがトゥムン グンであろうが領主に違いがなく、その見地から言えば地方行政首長という言い方にもな り得るだろう。トゥムングンがブパティのこととKBBIに記されているのはそういう意 味だろうと思われる。 1482年にチルボンのスルタンになったスナン グヌンジャティはチルボン王国の初代 領主であるパゲラン チャクラブアナの娘ラトゥ デウィ パクンワティを妻にしたアラブ 人だ。初代のチルボン王が婿に王位を継承させたということになる。自分の血のつながっ た息子に、闇雲に地位を譲るような父親ばかりではないということだろう。古代の王者の 中には、有能な男を探し出して自分の地位を継承させるために娘を使うという分別を持つ 者が少なからずいたようだ。 生まれた時から皇太子として甘やかされて育った息子が王になれば、孫の代に王国が危う くなっているかもしれない。子々孫々の幸福を見据える王は、息子より有能な青年に自分 の孫を作らせることを考えの中に持ったのではないだろうか。[ 続く ]