「大郵便道路(69)」(2025年03月24日)

チルボンでは、スンダ人が異文化人のアラブ青年を見込んで自分の娘を与え、領主という
自分の地位をも譲った。ヌサンタラという空間がいかに遠い昔から人間の混じり合う世界
であったかということがそこから見えてくるように思われる。人種・宗教・階層などとい
う個々人が持つ属性にとらわれることなしに人間の本質を見極めることをたくさんの人間
が行っていた。

インドネシア人が伝統文化として持っている異国人異文化人に対する包容力の源泉はもし
かしてそこにあったのかもしれない。現代インドネシアに住んでいる外国人の多くは多分、
自分を一個の人間として遇してくれるインドネシア文化の優しさに心ほだされた体験を持
っているのではあるまいか。

もちろん、インドネシア人のすべてがそうであると言っているのではない。狭量な心の人
間は世界中のどこにでもいる。インドネシア人の行動をコントロールする文化的な価値観
の中にその包容力を生み出す源泉があるようにわたしには感じられる。異文化人は何を考
え何をするか分からない魔物のような生き物だというクセノフォビアに彩られた人間観を
持つ空間にはなかなか起こりにくいことではないだろうか。

偉人に見出された有能な青年が偉人の娘の婿になると、有能さという能力クオリティを見
る眼を持たない取り巻き連中からいびり抜かれることになるのがお定まりのストーリーの
ようで、そんなシナリオの書かれた芝居が日本にもたくさんあった気がする。

この二代目チルボン領主がどうだったのかは知る由もないが、西ジャワのイスラム化の司
令塔になったスナン グヌンジャティは1568年にスルタンの位を自分の息子でなく、
ファタヒラに譲った。スンダクラパを征服してジャヤカルタに変えたファタヒラだ。

このファタヒラも北スマトラのパサイ王国の末裔と言われる人物で、最初はドゥマッスル
タン国で頭角を現し、バンテン征服のためにチルボンスルタン家と関わるようになり、ス
ナングヌンジャティの娘ラトゥ ウルンアユを妻にし、舅から信頼されてスルタン位を譲
られた。


それからほどなく、オランダ人がヌサンタラの海域にやってくるようになる。栄える港町
チルボンを支配下に置くことがVOCの方針にされ、1681年1月7日にそれが実現し
た。チルボンの統治者が自らの地位を維持するためにVOCとの条約締結を余儀なくされ
たのだ。政治と経済の舵はオランダ人の手に委ねられた。

そうして激動の時代を通り過ぎてからオランダの植民地支配が繁栄を謳歌するようになっ
て1906年にチルボンはへメンテの地位を与えられた。市域面積1千1百Ha、住民人
口2万人というのがその新へメンテの規模だった。

1920年になってやっと最初の市長JHヨハンが新へメンテを統率した。1925年に
二代目市長に就いたRAスコットマンのときにへメンテの地位がシュタッツへメンテに引
き上げられて自治権が拡大し、1928年の三代目市長JMファン オーストロムに市の
経営が引き継がれていった。[ 続く ]