「大郵便道路(70)」(2025年03月25日)

プラムディヤ・アナンタ・トウルはチルボンの歴史について、こんなことを書いている。
VOCはこの町に軍事拠点を置き、ダンデルスの時にはそれが強化された。この町に住む
ヨーロッパ人は瀟洒な建物に住んだ。たくさんの住民で賑わう町だったが、ダンデルスが
ジャワ島を去ってからほんの数年後にペスト禍でチルボンの人口は激減した。

チルボンがインドネシアの歴史に登場するのはプリブミ商人層がイスラム教を奉じるよう
になってからだ。その前のヒンドゥ文化の時代にチルボンはたいした役割を果たしていな
かった。ヒンドゥ時代の遺物や遺跡はカワリの石碑やトゥラガのブロンズ像など数少ない
物しか発見されておらず、その事実がそれを証明している。

ヒンドゥからイスラムへの文化移行期にチルボンはスナン グヌンジャティという人物の
出現によってインドネシア史に重要な1ページを記すことになった。この人物がチルボン
の町を築いたというイメージが流布しているとはいえ、かれの実像はイスラム布教に大き
く貢献したひとりのアラブ人というのが正確なところだ。シェッ ヌルディン・イブラヒ
ム イブン マウラナ・イスラエルという名前のアラブ人がチルボンにやってきて、ムスリ
ムになったプリブミ商人たちの社会で暮らしはじめた。

かれはチルボンのスルタンになり、没したあとチルボンの町から4キロほど北の丘に廟が
作られて祀られ、その墓はヌサンタラ全土のムスリムにとって参詣の対象になっている。


VOCがチルボンの町を手に入れようとして策謀のかぎりを尽くし、チルボンの統治権を
継承したスルタンの子孫が相争って分裂状態を招き、チルボンの栄光は色あせた。ジャワ
島にイギリス統治時代がやってくると、チルボンの地元支配者はイギリスにチルボンの統
治行政を委ねることまでした。

1719年から1805年まで、チルボンは相続く災厄のために暗い町になってしまった。
凶作・ペスト・飢餓・強盗・掠奪・殺人・・・・

その原因がVOC・スルタン・華人にあると考えた住民たちはミルサを指導者に押し立て
て反乱を起こした。反乱は1778年に鎮圧されたが、1793年に再発した。反乱が一
カ所で起こると、それは大した間を置かずに別の土地に伝播し、そして全土に広がるとい
う様相を呈した。VOCは武力鎮圧に失敗し、懐柔に方針転換した。反乱は下火になって、
ついに反乱のリーダーたちはVOCの手に落ちた。

そのあとにやってきたダンデルスは反乱の再発を予防するために、華人の内陸部での居住
を禁止し、あらゆる形態の土地賃貸を撤廃させ、借金返済できない債務者が身柄を拘束さ
れる習慣も廃止した。物品貢納を制限するために貢納品をコーヒーと綿に限定させた。

住民の負担は軽減されたというのに、それでも反乱は再発した。1808年、1811年、
1816年と小規模の反乱は違う場所で相互の関連なしに起こった。ダンデルスはチルボ
ンのスルタンに民衆からの税と貢納を減らせるだけ減らすように強いた。ところがそのあ
と、ファン デン ボシュが栽培制度をひっさげてやってきた。チルボンの住民はまた武装
蜂起した。反乱は鎮圧されて指導者はバンダ島に流刑されたものの、その反乱がファン 
デン ボシュと東インド参議会議員Pマルクスの間に論争を引き起こした。ともあれ、チ
ルボンの住民反乱はそれ以後、鳴りをひそめてしまった。[ 続く ]